映画『ブレードランナー』+『ブレードランナー2049』(かんたん感想)

〈↓ネタバレありSpoiler Alert!↓〉
・映画『ブレードランナー』
・映画『ブレードランナー2049』

1982年の『ブレードランナー』という映画は、私にとって長い間、観ておくべきかどうか迷っていた作品でした。
多くのクリエイターがこの映画に影響を受けたという話は聞きます。後に続く数多くのSF作品が、この一本の映画にインスパイアされたということも知りました。
それでもこの2017年になるまでに、私がこの「原点」なるものに触れてみようと思うきっかけはありませんでした。だって自分が生まれるより約10年も前の作品だし、他に今に観たいものもたくさんあるし……と。

そこにやってきたのが『ブレードランナー2049』でした。続編を作ることさえ畏れ多いとまで言われた作品。しかもリドリー・スコット本人が監督するわけでもない。
しかし『2049』の本編が公開される約1か月前に、相次いで公開された3本の短編映像が斬新で私の目を引きました。前作と続編の空白期間を描く、3つの前日譚。私は観てすぐにその世界観に引き込まれていくのが分かりました。


『2049』公開の1週間前の休日、やっぱり予習はしておくべきだと思い立ち、私は『ブレードランナー:ファイナル・カット』(字幕版)のバージョンを手に取りました。

そういうわけで、以下の感想ではこれら2つの映画を、別々の作品というよりかは、一続きの自分なりの体験として扱っています。
ちょっと長くなりますがどうぞお付き合いください。

 

『ブレードランナー』(1982)

2019年のLAのビジュアルを初めて観た時の印象は、端的に言って「カオス」でした。高い煙突からは炎が吹き上げ、屋外の広告には実在の企業のロゴとともに怪しい日本語や中国語、韓国語のメッセージが並び、色とりどりのネオンが街を照らし出し、酸性雨が降りしきる中を多くの人々が行き交い、地面にはゴミが溜まり、空には飛行船やスピナーが飛んでいる……。
不健全であるとも猥雑であるとも言える街並み。しかし、同時にこれほど多様性に満ちたビジョンはないと感じました。多くの文化がひしめき合っているものの、どれも互いを排除せず、それぞれ今日もじめじめした夜を凌ごうとしている。自分が日本人として観ているからそう思うのかもしれません。アメリカで暮らす人々の一部には、アジア圏による一種の文化侵略の未来に見えたかもしれません。
ともかく、30年前に考えられたとはとても思えないユニークな未来観だと感じました。調和は無いかもしれないが、ささやかな自由がある。清潔さは無いかもしれないが、活気はある。豊かではないかもしれないが、将来へのかすかな期待はある。

そんな未来において、何が問題となるのか。それは、「本物と作り物」とを分け隔てるもの。何が本物で、何が精巧な作り物なのかを見分けるのがとても難しくなった時代において、人は一体何に、どこに「本物」を求めるのか。
『遊星からの物体X』(奇しくも同年に公開されている)の血液テストシーンのように、ヒトとそれにそっくりに似た何かとを判別する瞬間には、いつも緊張感が漂います。『ブレードランナー』では、VKテストのように人間かレプリカントかを見分けるための手段は確立されているものの、主人公デッカードやレイチェルが抱えているような、「自分もまた誰かの作り物かもしれない」という不安が全編につきまといます。自分の過去の記憶すらも疑わしく感じさせる技術ができてしまった時代に、一体何を信じて生きていけばよいのか。

デッカードは当初から、ドラマの中心人物になることを嫌がっています。ブレードランナーとして腕が立つものの、その仕事に気が進まないように見えます。かつての上司に呼び戻され、ほぼ強制的に仕事を押し付けられてしぶしぶやる気を出します。その態度の真意は、デッカードを助けるためレイチェルがリオンを射殺した後のシーンの様子からうかがえます。

デッカード「震えるか? 俺もだ……。辛いよ。仕事だがな」(Shakes? Me too… I get ‘em bad. It’s part of the business.)

レイチェル「私は違う……。殺される側よ」(I’m not in the business… I am the business.)

冒頭の字幕で示唆されている通り、レプリカントを”解任”(retirement)する行為というのは、実質的には本物の”処刑”(execution)に等しい心理的プレッシャーを伴うことが分かります。中盤でブライアントがデッカードを「殺し屋」と称しますが、やはりその仕事は殺人と見分けがつかない行為ということになってます。
もしレプリカントのことを単なる作り物と、”skin-job”と割り切れるなら、そこまで辛く思わないかもしれません。しかし、デッカードの内心には、何か違う感情が芽生え始めています。

この映画はレプリカントの側にも視点を与えます。ロイ・バッティ率いる逃亡レプリカントの一団。刻々と迫りくる自分達の寿命を克服するために、LAを動き回ります。ロイ達の視点から、彼らも切実な事情を抱えて逃げていることが分かります。レプリカントの方に感情移入する余地すら残されています。
私が一番好きなのは、やはりタイレル社長とロイがついに対峙する場面。

タイレル「一体、どんな問題かね?」(What…what seems to be the problem?)

ロイ「死だ」(Death.)

タイレル「死? あいにくそれは私の管轄外だが……」(Death? Well, I’m afraid that’s a little out of my jurisdiction…)

ロイ「俺はもっと生きたいのだ、父よ」(I want more life, father.)

チェスの勝負でタイレルを負かしたように、既に人類を凌駕する知能を得ているロイ。自らを創り上げた「神」とようやく対面することを果たし、もはや一般人には理解できない高度な生物工学の議論を交わし、しかしそれでもなお自分に定められた運命はもう変えることはできないと知ります。

タイレル「生命の事実だ。有機体のシステムを変えることは命取りになる。コード配列は、一度確立すると変更はできない」(The facts of life… to make an alteration in the evolvement of an organic life system is fatal. A coding sequence cannot be revised once it’s been established.)

ロイ「何故だ?」(Why not?)

タイレル「外部から干渉を受けた細胞は、2日以内に復帰突然変異体のコロニーを生む。ネズミが沈没寸前の船から逃げ出すように……、そして船は沈む」(Because by the second day of incubation, any cells that have undergone reversion mutation give rise to revertant colonies, like rats leaving a sinking ship; then the ship… sinks.)

ロイ「EMS組み換えは?」(What about EMS recombination?)

タイレル「既に試した。エチル、メタン、スルフィン酸塩はアルキル化剤で強力な突然変異原だが、有毒なウィルスを作り出し、被験者は即死した」(We’ve already tried it – ethyl, methane, sulfinate as an alkylating agent and potent mutagen; it created a virus so lethal the subject was dead before it even left the table)

ロイ「では、細胞活動を阻害する抑制タンパク質は」(Then a repressor protein, that would block the operating cells.)

タイレル「遺伝子複製を阻害せず、むしろ複製時のエラーを誘発する。新たに生まれたDNA鎖は突然変異をもたらし、やはりウィルスが作り出される……。だが、これらは全て学術的な話だ。君らは我々にできる限りで完璧に作られている」(Wouldn’t obstruct replication; but it does give rise to an error in replication, so that the newly formed DNA strand carries with it a mutation – and you’ve got a virus again… but this, all of this is academic. You were made as well as we could make you.)

ロイ「だが寿命が続かん」(But not to last.)

専門用語多すぎて訳に自信がありません。

気の毒に思ってしまいます。人間ですら死を乗り越えられないというのに、どうしてレプリカントにできると思ったのか。しかし、真の絶望を味わったロイは、自らの神をその手でもって殺害します。フランケンシュタイン的展開をなぞるとともに、ロイ・バッティというキャラクターをとても人間的に感じさせるシーンです。

と、要所要所では確かに美しいシーンもあるのですが……、正直言って、序盤から中盤は、間延びしたシーンが多い印象でした。物語的な盛り上がりに欠けるという意味です。デッカードはあまり捜査に積極的ではなく、レイチェルとの地道な関係性を描くことに時間が割かれます。ロイ達はタイレル社長に近づこうとしますが、それにしてはやけに余裕ありげな言動を取ります。もっと言えば、デッカード側の視点・ロイ側の視点交代までに時間をかけ過ぎていて、どちらかを観ている間に途中で(そういえば今もう片方は何しているところなの……?)ということが気になりだします。単純にプロットの配分の問題です。ようやく動き始めたかと思ったのは、ユニコーンの夢のシーン。

とはいえ、終盤に向かって収束していく展開は盛り上がります。ついに対決することになるデッカードとロイ。腕力も知性も不利なブレードランナーと、死が迫り狂気に走ったレプリカント。追う側は追われる側に変わり、もはや展開の予測は付かなくなる。

ロイ「恐怖の連続だろう。それが奴隷の一生だ」(Quite an experience to live in fear, isn’t it? That’s what it is to be a slave.)

逃げ惑う中でもはや体力も気力も失い、命を落とそうとする寸前のデッカードを、しかしロイは助け上げます。驚き戸惑うデッカード。ロイはその場に座り、語りかけます。

ロイ「俺は、お前達人間には信じられぬものを見てきた。オリオン座の肩の近くで炎を上げる攻撃船。タンホイザー・ゲートのそばで闇の中に瞬くCビーム。そんな瞬間もみな時とともに失われる……雨の中の涙のように。……死ぬ時が来た」
(I’ve seen things you people wouldn’t believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhauser gate. All those moments will be lost in time… like tears in rain… Time to die.)

「雨の中の涙のように」、今まで耳にしてきた中で一番シンプルで美しい比喩だと感じました。このシーンにこそ、この映画の力強さと美しさが宿っています。終わりある命が最後に放つ輝き。死を迎える者とそれを看取る者。これまで観てきた全てのカオスな世界観、カオスな展開も、この瞬間へ導くためにこそあったのだと分かります。

そして最後、デッカードはレイチェルが生きていることを確かめ、彼女を殺すのではなく、共に逃げることを選択します。自宅の玄関の前に落ちていた、ユニコーンをかたどった折り紙。それを握りしめてデッカードはエレベーターの奥へと消える。
観終わった直後、正直私の頭の中には「デッカードはレプリカントなのか?」という疑問は全くもって浮かびませんでした。
そんなことより気になったのはただ一つ。「デッカードとレイチェルはどこへ消えたのか?」

このリドリー・スコット監督のコメントを読む限り、私は全く反対の解釈をしてました。
天然の動物がほぼ絶滅し、人工の動物しか手に入らない時代。そんな世界において、ユニコーンという実在しない架空の動物のことを気にかけることができる存在は限られるのではないでしょうか。亀も電気羊も見たことがないレプリカントに、緑溢れる森で躍動するユニコーンのことをありありと夢見ることができるのでしょうか。もちろん移植された誰かの記憶というならそれまででしょう。でも、そもそも前後の文脈に関係なく突然挿入されるシュールなカットなので、どうとでも取ることはできます。

ガフのユニコーンの折り紙。私はこういう意味だと受け取りました、「第三の選択肢はある」と。動物でも人間でもない、創り出された想像上の存在。デッカードはレイチェルを、ブレードランナーとして殺すのでもなく、無関係の人間として見捨てるのでもなく、第三の選択肢――共に生き延びることを選択します。限られた生き方を繰り返すのではなく、今までになかった新しい方法を創造すること。そこにこそ人間らしさが宿りうるということ。

予習はここで終わりました。私はデッカードの行方を追うようなつもりで、つまり直接の続編を観に行くような気で、一週間後、劇場に足を運びました。

『ブレードランナー2049』(2017)

先に言っておきます、2回観に行きました。あの衝撃は、とても1回観ただけでは受け止めきれません。5日と経たずに2回目を観ました。そしてようやく私なりにこの映画を受け入れることができました。

オープニング。暗闇に響き渡るドラム音とスタジオロゴ。浮かび上がる字幕。シンセサイザー。前作へのリスペクトある演出。

見開かれるグリーンの瞳。ここは? 西暦2049年、カリフォルニア郊外。銀色のソーラーパネルが一面を覆いつくす灰色の大地。その上空を飛ぶ一台のスピナー。自動運転モードの間、居眠りしているライアン・ゴズリング。ブザー音が鳴って目を覚ます。目的地は一軒の農場。スピナーから1台の監視ドローンを飛ばして、地面に降り立つK。もうもうと立ち込める白い砂煙の中から彼のシルエットが現れる様は、完璧に計算しつくされた絵画的な構図。
Kは静かに家の中に入ります。薄暗い室内。火がかけっぱなしでぐつぐつ煮だっている鍋。他に何も動くものは無い。この沈黙、もう既に「ドゥニ・ヴィルヌーブ監督」を感じざるを得ません。

K「勝手に上がらせてもらった。十分注意を払ったよ……、靴についた泥には」(I hope you don’t mind me taking the liberty. I was careful not to drag in… any dirt.)

前作のいちばん最初の台詞(館内放送を除く)が、ノックに対する「どうぞ」(Come in.)だったのに対し、今作は許可なく「勝手に上がらせて」もらっている。面白い対比だと思います。
カブトムシの幼虫みたいなタンパク源を育てているデイヴ・バウティスタ。彼がネクサス8型レプリカントであることは、上述の前日譚映像でも明かされていますし、この映画の初めに出てくる時点で只者ではありません。

サッパー「俺を逮捕しに来たのか」(Plan on taking me in?)

K「ミスター・モートン。逮捕が選択肢の一つに入るのなら、俺だってそうしたい」(Mr. Morton. If taking you in is my option, I would much prefer that to the alternative.)

テーブルにごとりと置かれるブラスター。サッパーの腰の衛生兵用ポーチ。Kが取り出す眼球計測装置。抜かれる医療用メス。煮え立つ鍋の音。
戦いが始まります。怪力によって壁を突き破られ、投げ出されるK。体格差で見て圧倒的に不利な状況……と思った瞬間、なんとライアン・ゴズリングのパンチでデイヴ・バウティスタが倒れる。レプリカントは体力も敏捷性も人間に勝る。まさか……。

K「立たなくていい」(Please don’t get up.)

これも前作の「じっとしていて」(Please don’t move.)に相当するセリフ。開始5分にして、事前に全く知らされなかった、「主人公がブレードランナーにしてレプリカント」という重大なネタバレ要素が明かされるなんて思いもしません。

サッパー「お前ら新型は、クソみたいな仕事をして満足している……。奇跡を目にしたことが無いからだ」(You newer models are happy scraping the shit… because you’ve never seen a miracle.)

最後の突進。放たれるブラスター2発。
“解任”の完了。完璧なイントロ。

そして、カメラは2049年のLAを映し出します。相変わらずの複雑怪奇な建造物群。しかし、何かが違う。単に時代が経っただけではないという、何か。
まず、全体的に薄暗い。前作の頃にあった過剰なまでの明るさが無くなっている。これにはパンフレットで明確な理由が語られています。大停電(ブラックアウト)を経た後、2040年代には「人口も減少し、かつては無数に灯っていた街灯も、いまではメインストリートのみに集中している」のだそう。

もう一つ、より重大な変化があります。それは街を彩る広告の中身。2019年の広告はこんなことを謳っていました。

「宇宙都市があなたを待っている!チャンスと冒険がいっぱいの希望の土地へどうぞ!」(A new life awaits you in the Off-world colonies! A chance to begin again in a golden land of opportunity and adventure!)

対して、2049年の広告はこう変わっています。

「ジョイは貴方の望む場所へ行く」

30年前、人々には目指すべき場所が示されていた。地上で金を稼ぎ豊かになれば、いつの日かオフワールドの理想郷に行けて、望み通りの暮らしをする夢を描くことができた。しかし、30年後、その夢の方が人々に近づいてきた。わざわざ宇宙まで行かなくても、地上であなたの望みを満たすサービスが登場した。それを提供する会社はただ一つ、ウォレス社。
2049年の世界では、ありとあらゆるところにウォレス社の影が見えます。ネクサス9型レプリカントの生産元である一方、JOIのような家庭用オートメーションシステムも提供しています。パンフレットで知ったのですが、中盤でKがマリエッティらに絡まれる食堂(ビビのバー)で、人々が自動販売機で購入している様々な食品も、全てウォレス社の遺伝子組み換え食物だそうです。
30年前と30年後の間の重大な変化。それは、企業による一極的支配。豊かな者は豊かなまま宇宙に出て行く一方、貧しい者の目標はどんどん貧しくなっていき、その貧者の中にもさらに二重三重の格差が生まれていく社会。2049年のLAは、いま最も生々しいディストピア観の一つに変わりました。それは、かつてないほど現実の延長上にあります。社会のインフラが少数の者達によって実質的に支配され、大多数の市民はその生活の枠組みに従わざるを得ない。Kがエマネーターのアンテナを折ると、今まで彼の位置情報がウォレス社に筒抜けだったことが分かるシーンがあります。日頃からスマートフォンで位置情報を企業に抜かれ続けている私達は、これを観てももはや驚きすら感じません。
30年前よりも、未来は、そして現実は、より暗くなりました。

Kはネクサス9型レプリカントとして、かつブレードランナーとして淡々と仕事をこなします。それでも、LAPDを歩けば「人もどき(スキンジョブ)」と罵られ、密室でナボコフの『青白い炎』を暴力的なまでに繰り返し暗唱させられ、自宅の玄関にも落書きされ、ネクサス8型からも忌避されてしまう。しかし、彼には自分の役割、生き方への拒否権は無い。ネクサス9型にそんな選択肢(alternative)は与えられていない。
そんな彼の、ごくささやかな自由――唯一心に寄り添って平穏をもたらしてくれる存在が、ジョイです。これまた予告編でも全く説明されなかった正体で驚きました。ほとんど常時身体が透けてる。でも、ジョイはKに優しい言葉をかけ、愛らしい笑顔を振りまき、Kもジョイに愛情を感じます。どちらもまるで相手が「本物」であるかのように。作り物と作り物の間の恋愛ごっこ。それでも、彼女と共にいられる時間があるから、Kの感情はバランスを保っていられます。

Kが命令に服従するしかない存在なので、プロットも直線的に進みます。地中から掘り出された秘密。アーカイブに保存されている歴史。手がかりが一つ見つかるごとに次の道しるべが見え、Kは淡々とそれを辿るだけです。
しかし、全てが変わり始めるのが、Kが日付を発見した瞬間。「6.10.21」その数列が、彼の中にあった最も古い記憶を呼び覚まします。まさにここから、この物語の主人公がKであり、他の誰でもない理由が見え始めてきます。

ところでですが、あなたが「あなた」であることの根拠は、いったいどこにあるのでしょうか? あなたはどうして、自分の存在が他の誰かの間違いでないと言い切れるのでしょうか?
全ての人間は、毎日の中で必ず何時間か――数十分でも良いし半日でも――必ず意識が無くなっている状態があります。そうならない人間はいません。眠りから覚めた時のあなたが、眠りに入る前のあなたとどうして同じだと言い張れるか。答えはシンプルです。脳の中の記憶が過去からずっと連続性を保っているように感じられるから。
SF作家グレッグ・イーガンの作品に、『貸金庫』という短編小説があります。

ありふれた夢を見た。わたしに名前がある、という夢を。ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける。それがなんという名前かはわからないが、そんなことは問題ではない。名前があるとわかれば、それだけでじゅうぶんだ。

――『貸金庫』(『祈りの海』所収)

この物語の主人公「わたし」は、物心がついた頃から――自我が芽生えた頃から――ずっと特定の身体、名前を持たず、眠って目覚める度に別の人間の身体にランダムに乗り移り続けてきました。寄生虫が宿主(ホスト)から宿主へと乗り移るように、「わたし」という意識だけがずっと移動を続けます。とある街の中のとある年齢層(一九五一年の十一月か十二月生まれ)の人間の間でだけ、という限定はあります。しかし、「わたし」は自分の身体と名前を選ぶことができません。毎日毎日、起きる度に別人として生まれ変わり、その人間のふりを演じなければなりません。
幼い頃の「わたし」はこう思い込んでいました。変化しているのは「わたし」の方ではなく、自分の周囲の環境の方だと。毎日、兄弟姉妹の人数や歳や性別や名前は脈絡なく変化し続け、両親やペット、おもちゃ、家具、壁紙、そして家も同様に形を変え続けました。「わたし」は「自分が家から家へ、体から体へと移動しているのだとは思いもしなかった」のです。

ヒトは、究極的には、上記の主人公のような存在を仮定することができます。記憶さえ失わずに保持し続けることができれば、私は「私」であることができます。逆に言えば、それ以外には何も、自分が自分であることの理由、そして意味が無いのです。

捜査官KD6-3.7は、全く予想外に思い出したある記憶によって、こんな疑いを持ち始めます。自分が捜査している対象は、まさに自分自身ではないかと。史上初めてレプリカントの身体から生まれた子供。もしかしたら、自分こそが「選ばれし存在」なのではないか。疑いはやがて願望へと変わり、捜査が進むほど事情は彼にとってより「個人的」なものとなります。

ジョイ「いつも言ってたでしょ、あなたは特別だって」(I always told you. You’re special.)

未来の世界にとっての「特別」とは、今の私達が言うそれとはいくらか重みが違うようです。

ラヴ「私はミスター・ウォレスの代理人のラヴです」(I’m here for Mr. Wallace. I’m Luv.)

K「名前をお持ちだ。特別な存在なんですね」(He named you. You must be special.)

ラヴ「……私はミスター・ウォレスの代理人です。どうぞこちらへ」(… I’m here for Mr. Wallace. Please come with me.)

作り物が大量生産され、どこにいても同じような機能、同じような役割、同じようなブランド価値が、普遍的に配置される時代。しかし、そんな時を生きるネクサス9型であっても、心の奥底で他者とは違う存在であることを、特別であることを望んでいます。

私は、どこか現実の2010年代との繋がりを感じます。インターネットで世界が繋がり、リアルタイムに他者が何をしているかの情報が自分に届けられるようになり、自分もまた世界に向けて容易に発信することができる時代。古くから続いていた因習的な不平等が徐々に廃絶に向かい、自由と平等と多様性と思いやりがより求められるようになった時代。そんな風に多様性が担保される時代において、しかし、「自分」自身の存在価値が、他者と平等に等しく見なされてしまうことには、どこかに抵抗感がある。
より声の大きな者の存在だけがスポットライトに照らされたかのように注目され、そうでない者達の存在は陰にいるように、相対的に矮小に感じられる。場合によっては、自分の存在価値は相対的に無いかのように感じられる。だからこそ、何かしら自分なりの特別さを求めたくなる。
これが全ての年代に共通する心情と言うつもりはありません。『ブレードランナー』の約10年後に生まれ、今の2017年を過ごす私がそう思っているだけかもしれません。しかし、レプリカントである主人公が、人間の私達をここまで惹きつけ、感情移入を促すのは、そんな潜在的な共通点があるからだと思います。

Kも自分が「特別」である可能性を希求して、ステリン研究所を訪れます。そして、真実は彼にとって残酷なものとなります。

ステライン博士「これは誰かの記憶……。ええ……、本当にあった出来事よ……」(Someone lived this, yeah… It happened…)

K「本物だと思っていた……。本物だと思っていた……。……このっ! ちくしょう!!」(I know what’s real…I know what’s real……GOD! COME ON!)

彼の記憶は事実だった。つまり今回の解任の対象は彼自身ということになる。ここからのKは、記憶が基となって生まれた自身の感情に突き動かされて行動します。だから、ジョシには嘘の報告をし、任務を解かれても木馬を手がかりにラスベガスへと向かいます。

そうして、だいぶ時間はかかりましたが、ついに新旧の主人公のご対面です。1982年に現役で『ブレードランナー』を観た人にとっては、実に30年以上ぶりのデッカードとの再会です。ハリソン・フォードという俳優が身に持つヒーロー性ゆえなのか、実際の『ブレードランナー』での活躍ぶり以上に、デッカードは神秘的な再登場を果たします。(※7日前に『ブレードランナー』を予習した人間の印象です。)
個人的にこの廃墟のカジノホテルの中のシーンが大好きです。沈黙の中に張り巡らされたワイヤートラップ。ピアノの音。炸裂するブラスターの発砲音。ステージホールで断続的に映し出されるホログラフのショー(余談ですがこのシーンのシュールな空気はどこかデヴィッド・リンチ風味を感じました。)
殴り合いが無意味だと分かり、疲れて飲みにバーに入る二人。廃墟となった環境で、犬と二人きりで暮らしているという『マッドマックス』的な余生を過ごしてきたデッカードですが、Kは彼に訊きたいことが山ほどあります。そして、しぶしぶデッカードは一つの名前を返します。レイチェル。前作と今作とを橋渡しする重要な名前。デッカードは自分が姿を消した理由も説明し、ここで大方の謎は解けます。

デッカード「時には誰かを愛するためなら、他人でいた方がいい」(Sometimes to love someone, you got to be a stranger.)

しかし、二人の時間もそう長くは続きません。ここから怒涛のような展開で、事態はKの心を折りにかかります。ラヴ達ウォレス社の襲撃により、エマネーターにいたジョイは物理的に破壊されます。そして奮闘むなしく、デッカードも連れ去られてしまいます。瀕死のKは、マリエッティ達ネクサス8型の反乱軍に助け出されますが、そこで決定的な一撃が彼に与えられます。彼は「選ばれし者」などではなかった。彼は「特別」な存在などではなかった。物語の王道を外し、最も大きな動揺をもたらす瞬間。
そこに、追い打ちをかけるように現れるのは、ウォレス社の巨大なJOIのホログラフィー広告。

JOI「あなたって、いい人《グッド・ジョー》みたい」(You look like a Good Joe.)

滝のような酸性雨に打たれる孤独なレプリカントには、もう何も残されていません。彼の記憶は彼自身のものではなく、彼が信じていた願いも否定され、そして彼に唯一向けられていたと思っていた愛情も、彼にとっては永遠に失われてしまった。

ここで一つ比べることができるのは、映画の最初の状態のKです。自分に特別さがあるかもしれないとは夢にも思わず、「クソみたいな仕事」のために他者の命令に従って、ブレードランナーという役割を果たす。
しかし、今のシーンのKには決定的な違いがあります。それこそが記憶です。「6.10.21」の数列が引き金となり、危険を犯して孤児院に入り、木馬を手に入れ、廃墟のラスベガスまで行き、実の娘と会わないまま失踪した元ブレードランナーと出会った、冒険の旅の記憶。それは、他の誰のものでもない、製造番号KD6-3.7の個体だけが世界で唯一知っているエピソード。
彼の手の中に握られた一丁のブラスター。それを見て、Kの中で生まれた一つの決意。ここです。ここにこそこの映画の素晴らしさが詰まっています。Kは、解放を求めるレプリカントの代表としてでもなく、秩序を守るLAPDのブレードランナーとしてでもなく、第三の選択肢――K=ジョーというただ唯一の個人として戦いに出ることに決めます。その決意の姿に、私は心の底からカッコよさを感じました。

自分が「選ばれし者」でなくたって良い。「特別」でなくたって良い。魂を持っていなくたって良い。自分の記憶が偽りで自分自身のものでなくたって良い。誰かに役割を与えられなくたって良い。
本当に、本当に大事な事はただ一つ、自分か”何として生まれたか”ではなく、自分が”何を選択して生きるのか”。たとえ記憶が偽りであっても、彼がこの出来事の間に抱いた感情は、彼自身のものに違いありません。そして、それに基づいた選択もまた彼だけのものであり、同じ時代において他の誰にも複製(replicate)できない、他の誰にも成し得ない選択です。あれだけの大きな喪失とどん底を経た後でも、手に握ったブラスターから目を上げ、決意を秘めた表情を浮かべるKに、私は心の中で思わず(行ったれ……!)と呟いていました。

語るべきことが終わった後は、戦いが始まるのみ。この2017年、クライマックスが熱い映画はたくさんありましたが、『2049』のそれは本当にとてつもない体験でした。
デッカードとラヴを追い、激しい嵐の中を飛翔するLAPDのスピナー。分離して自立飛行を始めるドローン。砲火。破壊。海面に落ちていく機体の破片と炎のオレンジ色。全てハイスピードで通り過ぎます。
荒れ狂う海という舞台チョイスも素晴らしい。自然界の中で一秒も同じ形を留めず、常にうねり続ける波を映すことで生まれる映像のダイナミズム。そのビジュアルと、ハンス・ジマー&ベンジャミン・ウォルフィッシュのサントラが一体となり、これまでにないほどテンションを上げてきます。
Kの行く手を阻むラヴ。Kと互角の型式で、互角の戦闘力を持ち、しかしその立場は正反対です。彼女は、ウォレスによって与えられた役割を全うすることに存在価値を覚えています。

ラヴ「私は最上の天使」(I’m the best one.)

Kは誰にも属していない唯一の個人として、ラヴは役割に忠を尽くす社会の一部として、真正面からぶつかり合う。どちらの側が正しいというのは言えません。だから、純粋な意味で力の強さと、そして異なる立場の間の戦いです。その極限まで純粋化された構図に、シビれます。個人的にこういうのに弱いです。何もかもが互角の相手同士で、小細工なしで、ただ信じているものの違いのみによって、全力で勝負する。
最後に勝敗を決したのは、耐久力の強さの違いか、それとも信念の強さの違いなのか。彼はデッカードの救出に成功します。

デッカード「死なせてほしかった」

K「死んだよ。溺れ死んだ」

そして、ラストシーン。激しい夜の嵐から一転して、全てが柔らかな白い静寂に変わります。

K「最高の記憶は全て彼女のものだった」(All the best memories are hers.)

そう語るKの表情には、どこにも後悔や悲しさは感じられません。ただ、今の自分達が正しい場所に立っているということを知っている穏やかさだけがあります。

デッカード「何故だ? 俺は君にとって何なんだ?」(Why? Who am I to you?)

Kはその問いには答えず、ただただ優しく微笑んで――劇中でほとんど見ることのできない本物の微笑を浮かべて――娘さんに会いに行けとだけ返します。思い出の木馬を持たせて。
雪の降り積もる階段にKがゆっくりと腰かけ、そしてゆっくりと身体を横たえ、瞼を閉じ、『ティアーズ・イン・ザ・レイン』(Tears In the Rain)のテーマが流れ始める中、私はこんなことを思いました。「ああ、この映画は『記憶』のために手向けられた物語なんだ」と。

記憶。脆くて、曖昧で、不確かで、私達の心をとらえて離さず、いつまでも本物そのもののように感じられて、しかし決して本物ではないもの達。

一つには、かつて30年以上昔に、『ブレードランナー』をリアルタイムで観ていたファンの記憶に捧げられています。その不思議な世界観に魅了され、台詞を覚えるぐらい繰り返し鑑賞し、忘れようとしても忘れられず、しかし、時が経つにつれて、その思い出もだんだんと色褪せていく。記憶はいつか、雨の中の涙のように失われるのかもしれませんが、少なくともあの映画のことは忘れていないことに気づきます。だから、こう問いかけることを止められません、あの日自分が観た映画は、一体何だったんだろうと。あの映画の記憶はこのままどうなっていくのだろうと。
ドゥニ・ヴィルヌーブの『2049』は、これ以上望むべくもない続編として機能します。かつての夢の記憶を呼び戻し、その続きを見せてくれる。そして、かつてデッカードとレイチェルが最後に向かった命懸けの逃避行は、決して無駄なものではなかったのだと安堵させてくれます。あの映画を観て過ごした思い出は、決して無意味なものではなかったと分かることができます。

もう一つには、後の時代において初めてこの世界観を訪れる、私のような人間の記憶のために捧げられています。30年前のことは知らないけれど、常に言いようのない不安と不透明さ、圧迫感、息苦しさに覆い尽くされたこの現代で、他の人々の間で自分の立ち位置を見失ってしまいそうになる私達。それでももう私達には、Kというレプリカントの、ブレードランナーの生き様を確かに目撃したという記憶があります。自分の身から何もかも失ってしまったとしても、自分には何の特別さも無いという事実があったとしても、自分のアイデンティティーを喪失してしまったとしても、それでも自分なりの選択を続ける限り、私は他の何物にも置き換えられない私であることができる。本物らしさの意味、人間らしさの意味が、これほどまでに希薄になってきている時代でも、私とは一体何なのかを確かめることができる。

静かに降り積もる雪は、滝のように落ちて流れていく雨とは違い、Kの身体をその場所で優しく包み込んでいきます。棺の中に添えられる花々のように。

ステライン博士「少々お待ちを。……綺麗でしょう?」(Just a moment. …Beautiful, isn’t it?)

この映画を観たことは、忘れられません。3時間という長さも私にはあっという間で、2回観に行ってもまだ足りないぐらいでした。
また何度でも味わいたくなります、あの冒頭シーンの静寂と緊張を。新しいLAの街の退廃した空気を。JOIの透き通る可愛らしさを。ウォレス氏の醸し出す幽玄な狂気を。ステライン博士の儚い美しさを。JOIと同期したマリエッティの奇妙な情事を。ラスベガスの廃墟の壮大さを。打ちひしがれるKの孤独さを。そして、クライマックスの海壁での熱い対決を。

この映画を観たという記憶もまた、私の中で時とともに新しい雪の中へ埋もれていくかもしれません。しかし、私はそれでも良いのだと思います。あるレプリカントの生き様から知りました。自分という存在を形作っていくのは、他ならぬ自分自身の選択だということを。

パンフレットは宝物代わりです

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カテゴリー: かんたん感想, かんたん感想 -映画

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