映画『屍者の帝国』 (かんたん感想)

イントロダクション

フジテレビ系列のアニメ枠「ノイタミナ」の劇場版企画である、「Project-Itoh」なる企画の映画第一弾。原作はもちろん同名の小説。プロローグ部が伊藤計劃の絶筆となり、円城塔が第1章以降を書き継いで完成させ、共作となった本。死後の人間の脳に電極を挿すことによって屍者として蘇らせる、フランケンシュタインの技術が一般化した架空の19世紀が舞台。

アニメ映画版の監督は牧原亮太郎で、制作はWIT STUDIO。また、キャラクター原案はredjuiceで、、他の伊藤計劃作品の映画版でも同様に担当。
主人公となるのはジョン・H・ワトソンで(当然元ネタは「シャーロック・ホームズ」)、声優は細谷佳正。また、ワトソンの記録係の屍者であり、生前には彼と友人だったという設定が映画で加わったフライデー(これまた元ネタは『ロビンソン・クルーソー』)の役には、村瀬歩。その他、筋肉担当のバーナビー役に楠大典、ボンドガール的立ち位置の美女ハダリー役に花澤香菜などを迎えています。

日本での公開は2015年10月2日。

あらすじ

19世紀後半。この世界では、人間の脳にある「霊素」が人間の魂の正体であると考えられ、死後の脳に電気によって疑似霊素を書き込むことにより、死んだ人間を動く「屍者」として復活させていた。屍者は自分の意思を持たず、プログラムに従って単純労働をこなす。今や世界は屍者の労働力無しには成立しないまでになっていた。
ロンドンの医学生のジョン・H・ワトソン(演: 細谷佳正)は、病気で亡くなった友人のフライデー(演: 村瀬歩)を、生前の約束に従って墓から掘り出し、違法に死体を屍者化する。高度な言語処理機能を書き込まれたフライデーに、ワトソンは大量の書物を記憶させるが、ある日彼の前に、大英帝国の諜報機関「ウォルシンガム」の長であるM(演: 大塚明夫)という老人が姿を現す。彼はワトソンの屍者技術への高い関心を買っており、ワトソンの犯罪行為を放免とする代わりに、大英帝国のために働かないかと持ちかける。
ウォルシンガムの目的は、ロシア帝国の屍者技術者、アレクセイ・カラマーゾフが所持しているとされる「ヴィクターの手記」。そこには、かつて世界で最初に屍者化に成功したヴィクター・フランケンシュタイン博士が遺した、まるで生者のように意志を持ち言葉を話せる屍者を生み出す、究極の技術が記されているという。カラマーゾフはその手記を携行してロシア帝国からアフガニスタンの奥地へ逃亡し、ロシア帝国と大英帝国がそれを狙ってグレート・ゲームを始めようとしている。
その手記の内容に強い興味を引かれたワトソンは、Mの勧誘を受け入れる。そして、アフガニスタンとの戦争下にある、英国統治下のインド・ボンベイに、フライデーと共に向かった――。

レビュー


 

アニメ映画としての感想

正直、伊藤計劃の原作の一連の映画化には期待半分、不安半分といったところでした。原作の映像化はいつかは見たいところでしたが、(アニメ映画という方法で)どこまで原作を再現できるのかは気になっていました。

『屍者の帝国』の場合、まず歴史改変された19世紀の、スチームパンク的な独特の世界観の映像化が肝心です。霊素書込機(インストーラー)、蒸気機関、解析機関など。原作で仕組みの説明こそ詳しいものの、ビジュアルがどんな風かはある程度想像するしかありません。
その点、この映画ではどれも世界観に対して統一感を覚えられるデザインだと思いました。冒頭のフライデーへの書き込みシーンから端的に仕組みを伝えてきます。実際には存在しなかった歴史上の架空の技術をどうビジュアル化するかって難しいと思いますが、違和感なくスッと入ってきました。
屍者の表現も良かったです。CGアニメーションで描かれた屍者はヌルヌル動くので、それ以外の(生者の)手描き部分との違いがかなり際立ってます。普通のアニメでは、CGの質感が手描き部分と溶け込むかどうかで問題になるわけですが、この映画の場合はむしろ溶け込まない方が良くなります。「不気味の谷」の向こうにいると原作で何度も言及された屍者の動きをよく表現するには、この方法しかないと思います。これぞCGの正しい使い方。

このように、原作を基にアニメ映画をしているという点では観ててとても楽しめました。アニメ映画というメディアでどう表現するかという点は考え抜かれていると思います。
原作に比べてアクションシーンが露骨に増えていますが、ストーリーのテンポを速めたい、エンタメをしたいという意味では特に違和感もありません。だから、アニメ映画としてはこの作品をとても楽しめました。ただ……

〈↓ネタバレあり Spoiler Alert!↓〉
・映画『屍者の帝国』
・小説『屍者の帝国』

SFとしての感想

単純に言って、この映画はSFとして説明を色々省いていると感じました。原作での必要な要素をおおよそ映像内でカバーできているものの、そのフォローが足りてないように思いました。

この物語では、「結局、魂とは何なのか」という問いこそが一番の焦点にあるはずです。なぜ人間を屍者として復活できるのか。ヴィクターの手記の正体は何か。それらの解答を一つずつ明かしていって、最終的に一番大きな究極の問いに行き着くべきです。
なのに、それへの解答というか仮説が映画ではぼやけてるんじゃないでしょうか。
原作の小説では、人間の意識なり魂なりを形作り、屍者化を可能にするものとは、霊素ではなく特定の菌株ではないか、という核心部分まで書かれてます。これがSFとしてのこの作品のキモです。
「地球の自然界で、人間だけが持つ固有な能力や特徴」なんてものは存在せず、ただ他の生命体によって動かされているのでしかない、というアイデア。ヒトという種に対して徹底的に冷静な視点を持っているストーリーが伊藤計劃の小説で、円城塔もその本質を汲んでこういう真相を物語のオチに持ってきたはずです。

映画でもそういう部分が全く映像化されていないわけではありません。ラストバトル以降に現われる青色に発行する物体が”拡大派”の菌株(または”X”)のはずです。そして、最後にワトソンは自らを実験台にヴィクターの手記からその菌株を身体に取り込み、生きたままの”上書き”を試みるわけです。
が、(私の記憶違いでなければ)、そういう説明は一切映画内にありませんでした。いきなり登場する物体。よく分からないまま進展するストーリー。クライマックスを観ている時も、正直頭の片隅で思ってしまったのは、「これ、原作を少しも読んでない人でも大丈夫なんだろうか」でした。

原作では、「わたし」ことワトソンが一人称視点で魂についての考察を広げます。これに対し、映画ではワトソンとフライデーが二人で共に人間の魂の秘奥を見つけ出すという形に変換されています。これがある意味難しさを産んでいて、
観客も二人の「言語化されない」関係性の中から、二人の見つけた可能性を類推する他なくなっています。
ワトソンとフライデーの間に、原作に無い友人設定を作ったのが悪いとは思っていなくて、むしろ全然アリだと思います。面白くなるし、より感情を生み出せる変更点だと思います。ただそうなると、ある種避けられない展開として、人間の魂の正体というところに、二人で共同で目指すという流れにしないといけません。

そういう意味で、正直今回の映画ではちょっとだけ物足りなさを感じてしまいました。原作では、「わたし」という存在・「わたし」の意識・「わたし」の魂への懐疑が焦点にあったのに、映画では(いくらか情緒的に)、「きみ」の言葉、「きみ」の魂という形に置き換えられている。
もちろん、原作と同じ問いに対して、違う角度からアプローチしようという試みなのかもしれないし、それは映画化としての独自性かもしれません。映画というメディアとして、そちらの方が表現しやすいならその方が良いとも思います。ただ、それならせめて映画なりの明確な説明と解答が欲しいところでした。

今回の「Project-Itoh」、いちおう残りの2作品もしっかり観に行く予定には入れていますが、果たしてどうなっているのか……。その時にはまた別の感想記事にて。

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カテゴリー: かんたん感想, かんたん感想 -映画

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