映画『キングスマン』を観た (かんたん感想)

イントロダクション

ロンドンの不良少年が、かつて死んだ父親が所属していた国際スパイ機関にスカウトされ、紳士として成長していく様を、コメディーとヴァイオレンスと共に描くアクション作。もともとはコミックが原作だそう。

そういうわけなのか、監督は『キックアス』などのマシュー・ボーン。この人の映画は初めてでしたが、何というか随所にこの人の「ノリ」のようなものが感じられた気がします。

今作は過去の様々なスパイ映画にオマージュを捧げてて、もちろんキャスティングもそれにちなんでいます。コリン・ファースマーク・ストロングも、かつて『裏切りのサーカス』で共に出演。また、往年のスパイ映画でも主演したマイケル・ケインも、今作の諜報機関のトップ役です。
一方、新米スパイとなる主人公には、フレッシュなタロン・エガートン。同期の女性スパイ役で実質ヒロインのソフィ・クックソンと、今後注目されるかもしれないキャストもいます。そして、ヴィラン役はサミュエル・L・ジャクソン。そしてチョイ役でマーク・ハミルも登場(なんと原作コミックでは彼本人が登場していたようですが……)。

イギリスでの公開が2015年1月29日、日本では9月11日。

あらすじ

1997年、中東のテロリストの拠点を、ヘリコプターに乗った一部隊が急襲する。拠点は彼らによって制圧されたが、尋問中の捕虜のテロリストが手榴弾のピンを抜いてしまう。その時、一人の部隊員が捕虜の身体に覆いかぶさり、爆発を受け犠牲になった。生き残った隊員、ハリー(演: コリン・ファース)は、ロンドンの彼の遺族を訪れる。母親は幼い息子エグジーのことを案じるが、ハリーはある電話番号が刻まれたペンダントを彼に渡し、「将来何か困ったことがあれば、この番号にかけるように」と教え、去っていった。
時は流れ現代。アルゼンチンの雪深い山の小屋で、大学教授アーノルド(演: マーク・ハミル)が何者かに囚われていた。男達は教授を彼らの「ボス」に会わせようとするが、そこにスーツ姿の紳士が現れ、颯爽と男達を全滅させる。紳士は彼を救出しようとするが、次の瞬間、両脚に鋭い刃の付いた義足の女性(演: ソフィア・ブテラ)に襲われ、身体を真っ二つに切られてしまう。そこに現れたボス、ヴァレンティン(演: サミュエル・L・ジャクソン)は、教授をある計画の下に引き入れようとする。
ロンドンのウェストミンスターにあるスーツ店「キングスマン」では、ハリーが姿を現していた。彼を呼んだ老人アーサー(演: マイケル・ケイン)は、そのスーツ店の裏の顔、国際的なスパイ組織のトップであり、ハリーはその精鋭スパイの一人だったのだ。彼らは山小屋で死亡したメンバー、”ランスロット”の後継者を見つけるため、各々で候補者を探してくることとなった。
一方、成長したエグジー(演: タロン・エガートン)の家庭環境は最悪だった。母親は再婚した夫にDVを振るわれ、エグジーも夫の子分のチンピラに悩まされ、自身も不良少年として育っていた。ある時、エグジーは持ち前の手癖の悪さで、義父の子分の車の鍵を盗み、ひとしきり暴走運転をして、警察に捕まる。刑務所行きが決まりそうになる間際で、彼は肌身離さず付けていたペンダントを取り出し、そこに電話をかける。すると、彼は突然釈放される。警察署の外で当惑していた彼を待っていたのは、ハリーだった――。

〈↓ネタバレあり Spoiler Alert!↓〉
・映画『キングスマン』

レビュー


 

リバイバル

今のいわゆる「スパイ映画」というジャンルは、超単純化すると二つの潮流があるようです。シリアスでリアルな路線と、ロマン追求の路線
前者が隆盛したきっかけは、おそらく「ジェイソン・ボーン」三部作で、それ以降この手の映画はリアリティと切り離して考えるのは難しくなります。今の「007」シリーズでさえ、この路線の映画の影響が感じられます。
一方、後者のロマン溢れるスパイ映画の始まりは、そのかつての007シリーズです。世間の目を忍んで(時には忍びすらせず)行う、世界を守るための秘密の冒険劇の方が、より古くから人々の憧れを集めていました。
『キングスマン』劇中でも言われてる通り、今の時代のスパイ映画は前者のシリアス路線に傾倒しがちです。そんな中、この映画は「昔懐かしい秘密のスパイ活劇」を現代でリバイバルしようとします。

前述の通り、今作には新旧のスパイ映画へのオマージュが色々見られます。単に昔のスパイ映画をパロディーしようというのではなくて、敬意を持った”言及”という感じ。
キャスティングについては言いましたが、スパイ的な小道具には、もはや本家007がやらなくなったロマン溢れるガジェットがたくさん登場します。猛毒の塗られたナイフを仕込んだ靴は、もちろん『007 ロシアより愛を込めて』のアレ↓
(『ダークナイト』のジョーカーの靴もこれをオマージュ。)

さらに、キングスマンのエージェントが必ず身に付ける黒縁メガネも、かつてマイケル・ケインが『国際諜報局』でかけていたものが元ネタらしいですし、最近だと『裏切りのサーカス』のものも彷彿とさせますね。[001507]

昔の憧れを叶える

ストーリーラインは直線的でシンプルです。「亡くなった父親が、実は秘密組織のエージェントで、息子はその後を追って組織に入る」なんて超王道。そして、時を同じくして大きな悪事を企むボスが現われて、その息子(とごく少数の仲間)だけで、世界を救うための戦いが始まる……。
今どきこんな単純明快な筋書きの話を見かけなくなってしまったのは、現実の世界がそんなに単純明快な構造ではないことが誰でも分かるようになったからです。それに合わせてスパイ映画はますますリアルな世相を反映するようになり、対照的に昔みんなが劇場で観たような世界を救う冒険ものは少なくなりました。
この映画は、もはや単純ではないこの時代を、あえてノリと勢いで単純に描くことにしているみたいです。現代の世界の姿にそのまま国際的な秘密組織という装置をぽんと当てはめ、それでも違和感は出ないように物語を展開させています。
だから、映画の悪役や陰謀がとても20世紀的でもそれで良いんです。人類一斉に抹殺なんていう新世界秩序の陰謀を、今の時代で本気でやるかとも思いますが、それでもこの映画はそれが目的です。昔の悪役らしいことをヴァレンティンは分かっててやっています。かつて憧れた映画のように。

「憧れていた存在に自分がなる」というのがある種、この映画の全体のテーマみたいなところがあって、例えばハリーはエグジーにとってキングスマンに入るきっかけであり、憧れです。英国紳士のタマゴ(egg)だったエグジー(Eggsy)が、波乱を経て無事に一人前まで成長し、その夢を叶えます。そして、一人で華麗に敵を打ち倒して、一人で世界を救っちゃいます。
でも、彼も含めて、この映画の登場人物はみんな自分がそういった「よくある憧れのシナリオ」の中にいることを自覚しているかもしれません。この作品自体、かつてあった007的ロマンを体現していますし、どこまでもそういった「お約束」通りに話を運ばせます。でも、それそのものではありません。これは『007』シリーズそのものではなく、普通の人間が憧れのカッコいいスパイになってしまう物語です。
もっと言えば、そういうかつて憧れたようなロマン溢れる筋書きの物語は、もう今では誰も大真面目にやることはできなくなっています。何か実在の映画タイトルやキャラ名を劇中で出して、そういう映画が実際に存在する世界観であることにすれば、話は少し簡単になりますが。
「これはそういう映画ではない」(This ain’t that kind of movie)というセリフが何度も映画の中で繰り返されるのは、そういうちょっと切ない言い訳かもしれません。かつての憧れを現代風にリバイバルさせても、自分達は本当は無理なことをやっていると自覚的にならないといけないような。

でもこの作品の、紳士的な落ち着きと若者的な下品な勢いと爽快感は、好きです。憧れは憧れとして、思い切り現代のノリでそれをアレンジするという割り切りの良さもあって。かつてのスパイ映画は今ではこんな風に蘇るのだと思いました。

それにしても、映画館でエンドロールの流れ始めの時点で、早々に席を立ってしまった観客がいたのがちょっと不憫です。あそこまでだけ観たら、ただ最後にド下ネタで締めただけの映画みたいじゃないですか!

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カテゴリー: かんたん感想, かんたん感想 -映画

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