あえて比べるジェームズ・ボンドとジェイソン・ボーン(後編) -映画『ジェイソン・ボーン』三部作 各論編

だいぶ間が空きましたが、二人のJ.B.を比較してみる企画の後編。まずは前編からお読みください。

〈↓ネタバレあり Spoiler Alert↓〉
映画『ボーン・アイデンティティー』
映画『ボーン・スプレマシー』
映画『ボーン・アルティメイタム』

2.4.パーソナリティー

総じてジェームズ・ボンドは、「シニシスト」とか、「享楽主義的」、「女たらし」という風に評されます。
確かに彼は、敵はもちろん、仕事仲間や、上司のMに対してさえも皮肉を飛ばします。また、出先では品の良いホテルによく泊まり、身に付けているものもブランド品で、出会った女性といつの間にかベッドを共にしています。
彼は、自らがスパイであることを楽しんでいるようですが、その仕事精神の根底に、ユナイテッド・キングダムへの忠誠心があることは認めています。

シルヴァ「今の君がどうにかこうにかもってるのは、薬と酒のおかげ」
(Just look at you, barely held together by your pills and your drink.)

ボンド「憐れな愛国心も抜けてない」
(Don’t forget my pathetic love of country.)

――映画『007 スカイフォール』より(松崎広幸訳)

ボンドは、システムや権力に対して、どこか反発的・反骨的でありながら、やっぱり国を助けることを選んだ人間と言えそうです。

これまた、ジェイソン・ボーンは好対照を成しています。
彼はジョークらしいジョークを口にしません。特に2作目以降、ボーンが微笑むシーンは1秒もありません(写真の中や回想を除く)。また、彼は一人の女性を一途に愛し続けています。(そもそも出会う女性の人数自体少ないですが。)
大まかにいって、かなり「真面目」なキャラクターですが、一方で、内側から自身を突き動かすような強い感情も持っています。というより、彼の特色はその「人間臭さ」です。
社会から切り離された孤独な彼は、自分が信じられるものを捜しています。そして、過去に暗殺者としてやってきた自分の行為に対して罪の意識があり、とても内省的です。

ボーン「何度も謝罪しようとした……、自分のしたことを、自分の存在を。だが、罪の意識は消えない」
(I’ve tried to apologize for. . . for what I’ve done. . . for what I am. None of it makes it any better.)

――映画『ボーン・アルティメイタム』より(平田勝茂訳)

自己反省が行動の基点にあるボーンは、自分の記憶の真実を見つけるという目的がいつも頭にあり、ストイックかつ実直に振る舞うようです。

3.二つの極

さて、個人的には、この二人のヒーローは、それぞれスパイとして、正反対の極に位置づけられると思っています。

3.1.名を名乗る男、名を捨てる男

いきなりですが、ジェームズ・ボンドの決め台詞と言えば?

「名前はボンド、ジェームズ・ボンドです」
(The name’s Bond, James Bond.)

007シリーズでは、ほとんどの作品でボンドの「名乗り」の場面が用意されています。シリーズファンは映画を観ながら、この台詞が出てくるのを待っていると言っても良いです。この台詞によって、ヒロインや敵対する悪役達に、ボンドは自身の存在を知らしめています。

一方、ジェイソン・ボーンの場合は……

ジェイソン・ボーンは死んだ。聞いてるか? 2週間前に溺死した」
(Jason Bourne is dead. Do you hear me? He drowned two weeks ago.)

――映画『ボーン・アイデンティティー』より(栗原とみ子訳)

「思い出した。何もかも全部。もうジェイソン・ボーンじゃない
(I remember. I remember everything. I’m no longer Jason Bourne.)

――映画『ボーン・アルティメイタム』より(平田勝茂訳)

(動画が見つからない……)
映画の中で、ボーンが誰かに向かって、「俺はジェイソン・ボーンだ」(I am Jason Bourne.)と自己紹介するシーンは、実はありません。スイスの銀行で初めてパスポートを見た時に、「名前は、ジェイソン・ボーン……」(My name is Jason Bourne…)と呟いたり、電話口で「ジェイソン・ボーンだ」(This is Jason Bourne.)と知らせることはあります(相手に分からせるため)。
でも、一度も「ボーン」を自分の名前として、堂々と名乗ることはありません

これって、面白い違いだと思います。
片や、敵にすらやすやすと自分の名前を教える男、片や、自分に付けられている名前を取り消そうとする男。名前を好んで名乗るということは、自分の人格を認めているということでもあり、名前を消すというのは、自分の人格を否定するということでもあります。

3.2.自己肯定するヒーロー

ボンドは自分の存在と能力を疑っていません。
「00」の称号を持つ、MI6の一流エージェントとして、時には組織に反発しながらも、最終的に彼は自分のやることを貫き通しています。
ボンドは、自分の存在を肯定することによって、何をしているのでしょうか。『スカイフォール』には、Qのこんな言葉が出てきます。

Q「ワルサーPPK/S 9ミリショート弾。グリップにマイクロ皮膚センサーが付いています。あなたの掌紋を読むから、あなたしか撃てません。誰にでも使える武器ではなく、個人的な意思表明の道具です
(Walther PPK/S 9mm short. There’s a micro-dermal sensor in the grip. It’s been coded to your palm print so only you can fire it. Less of a random killing machine, more of a personal statement.)

――映画『007 スカイフォール』より(松崎広幸訳)

この最後の台詞、個人的にはちょっと説明的で冗長的に聞こえます。
というのも、Qがわざわざこう言うよりずっと以前から、既にワルサーPPKはジェームズ・ボンドの銃として現実にシンボルになっているからです。
ボンドはそのシンボル化された銃を握って、敵に鉛玉を送り込むことで、その身体に意思表明を叩きこんでるようなものです。「お前を殺すのはジェームズ・ボンドだ」と。殺しのライセンスを与えられている彼は、任務に関する限り殺人は不問です。

悪者と戦うという使命を与えられた以上、ボンドは自分の存在を守らなければいけません。自分の意志があやふやなままでは、「正義」を守るのはたぶん難しいでしょう。
敵に簡単に名前(本名)を教えるスパイなんて現実離れしてますが、それでも、彼はそうしてしまうのです。ボンドは確立された自己として、敵と戦う過程でその存在をどんどん押し広げようとしています。

3.3.自己否定するヒーロー

ボーンは、二重の意味で自分の存在を消したがっています。
警察やCIAから逃れるため、自分が存在した痕跡を残さないようにしています。そして、自分が望んでいない、殺し屋という役割を押し付けられてしまった過去の自分の人格を、反省しています。

言い換えると、彼は主張するための自己を全く持ち合わせていません。『ボーン』のストーリーは、過去の自分と訣別して、新しい存在に生まれ変わることです。
なので、彼の戦いは、自分の主義主張のためとか、「正義」のためのものではありません。
ジェームズ・ボンドの戦いが、国際的な陰謀を阻止するためにどんどん壮大になっていく傾向にあるとしたら、ジェイソン・ボーンの戦いは、かなり小規模です。究極の目的は、自分の過去の真実に辿り着くことであって、それ以上には拡大しません。むしろ、規模はどんどん収束していきます。

ボーン「ここで俺の全てが始まった。ここで終わらせる」
(This is where it started for me. This is where it ends.)

――映画『ボーン・アルティメイタム』より(平田勝茂訳)

そして、その先にあるのは、前述した通り、「ジェイソン・ボーン」という存在の消滅と、新しい自分の獲得です。

3.4.顕在と潜在

抽象的な言い方で良ければ、ジェームズ・ボンドとは、自己顕示に向かっていくヒーローなのに対し、ジェイソン・ボーンとは、自己を消していって、潜在性に向かっていくヒーローです。

自己顕示は、他者に対する優越や支配に結びつきます。
ジェームズ・ボンドというキャラクターは、前編で書いた通りタフで男前なマッチョイズムの象徴として見られています。敵と取っ組み合った末に殺し、どちらが上かを知らしめるというのは、ある種オスの性(さが)であり、自己顕示の極限の形かもしれません。
実際、007シリーズは、ボンドが悪を倒す物語です。もっと言えば、ボンドが悪者よりも勝っていることを、私達が確認する物語です。(他の多くのヒーローものに言えることかもしれませんが。)
享楽的という価値観、男らしいという価値観、愛国心という価値観、ジェームズ・ボンドという価値観。それが、ほとんど疑う余地のない世界の「悪者」と戦って、最後には勝利を収める。
彼は、それらの価値観を外界へどんどん押し広げていく男です。シリーズ第19作のタイトルにもなったボンド家の家訓は、「世界を手に入れてもまだ足りない(ワールド・イズ・ノット・イナフ)」でした。

ところが、冷戦が終わり、21世紀になって間もなく映画界に出現したジェイソン・ボーンは、それとは違う傾向のキャラクターです。
彼はそもそも自分が誰なのか分からず、ましてや誰が敵なのかもはっきりとは分かっていませんでした。社会の中に自分の位置を見出すことのできない男は、自分とはかつて何だったのかを追求し、そして、新しい自分に生まれ変わることを模索します。
同じ男性であり、エージェントの経験もありながら、彼にはボンドのような、他者に勝ろうとする志向が感じられません。そもそも、彼は誰かに対して優越することを目的としていません。
強いて彼の敵を挙げるなら、それは権力です。私達のあり方を上から決めようとする力です。彼の戦いは、優越のためではなく、抵抗のためかもしれません。

アクション映画のヒーローの癖に、人を殺したことについて、くよくよしているとか、うじうじしている、などといったボーン評も聞かれます。
しかし、『ボーン』シリーズが一定以上の人気を獲得できた理由とは、まさに彼の「俺は誰も殺したくない」という感情ではないでしょうか。

自分が初めて『ボーン・スプレマシー』を観て、何より斬新だと思ったのが、あの物語が安直に「復讐」をテーマとしなかったところです。
ボーンは中盤で記憶(の一部)を取り戻すと、一路ロシアへ向かいます。彼に殺人事件の濡れ衣を着せ、また恋人マリーを殺したのはロシアの暗殺者だったので、一見彼はその復讐に出かけたのかに思えますが、彼が捜していたのは、過去に自分が殺してしまった政治家の一人娘でした。ボーンがわざわざ彼女に謝罪するためだけに、全体の約3分の1のアクションが割かれています。こんなプロット、そうそうありません。
もし、恋人を殺されたボーンの復讐劇になっていたら、これは並の映画で終わっていたでしょう。
しかし、この作品のおかげで、ジェイソン・ボーンは、それまでヒーローにあるべきとされてきたものとは、また異なった価値観を提示することに成功します
ただ一意に「悪」と戦ってきたヒーローに代わり、自分の力と責任について内省し、その上自己否定することもいとわないヒーローの誕生です。

ジェームズ・ボンドのアクションに正統性を与えているのは、殺しのライセンスでした。任務の上でならどんな殺人も不問にされるから、ボンドはいちいち人殺しについて悩む必要はありません。権力によってお墨付きを得たアクション。
が、同じことを何十年も続ければ、それに疑問が湧いてくるのも当然です。それに応えるようなタイミングで登場したのが、ジェイソン・ボーン。ボーンも、CIAによって殺しにお墨付きを与えられていましたが、彼自身の感情はそれを拒みます。こうして、ボーンはボンドとは正反対の立場を取ることになります。

もちろん、『007』シリーズの方も、この時代の流れに全く無頓着だったわけではありません。2006年の『カジノ・ロワイヤル』で設定もボンド役も一新し、シリーズはリブートがされます。ダニエル・クレイグ演じる新生ボンドは、急変する時代の中でスパイとして自分ができることは何か、という問題に直面します。
特に、『スカイフォール』では、まさにジェームズ・ボンドという価値観そのものに試練を与えるような敵が現われます。もはやスパイは時代遅れであること、守るべき「正義」なるものが限りなく曖昧になってしまったこと、それと同じくらい誰が「敵」であるかも曖昧になってしまったこと。ボンド達の戦いも、かつてないほど複雑になってきています。

しかし、ボンドが最終的に選び取ったのは、「それでも俺は007として復活(resurrect)する」という道でした。ジェームズ・ボンドという価値観が揺らいでくる時代になった今でも、彼は連合王国のために戦うと。
やっぱり、ジェームズ・ボンドの立場は現代でも変わっていません。

4.まとめ

私の文章がまとまりが無いせいで、言いたいことがちゃんと伝わってるか、(ブログを書く度に毎回)不安なのですが、とにかく今回言いたかったのは、
ジェームズ・ボンドは、自分のあり方を肯定できるタイプのヒーロー、
ジェイソン・ボーンは、自分のあり方を内省できるタイプのヒーロー、

ということです。
どちらが好きかは人それぞれあると思いますが、私自身は両方とも好きだし、カッコいいと思います。

ボンドのカッコよさは、まさに彼のスタイルそのもの価値観そのものに宿ります。マティーニをステアせずにシェイクで飲み、アストン・マーチンを駆り、ガジェットを使って窮地を華麗に切り抜け、シニカルな台詞を決めながら悪役にとどめを刺すその姿に。半世紀以上貫かれたそのダンディズムのスタイルをカッコいいと思えるなら、カッコいいのです。
一方で、ボーンの魅力は、現実的なアクションと、それを支える人間くさい感情にあります。ボーン自身は、非常に没個性的というか趣味が無いんですが、彼のアクションは洗練されています。同時に、自分の過去のせいで苦しむ、私達に共感できるような感情を時折覗かせます。私達はボーンに、心情の面では「近さ」を感じます。

で、ここまで書いてきて何ですが、実はこの二人、どこかでは似た者同士な気がします。上手くは言えないのですが、それは二人ともある意味で「自由」だからです。
ジェイソン・ボーンというヒーローについて考えた総論編でも書きましたが、彼は殺し屋という役割を押し付けられることを拒絶して、自分で自分の生き方を決めるために行動しています。自分の自由を行使するために、権力から離れています。
一方、ジェームズ・ボンドも、「007」という生き方を自らの選択として引き受けています。シリーズの中で、辞められそうな機会は何度でもありましたが、最終的にはことごとく、MI6に還ってきます。スパイという役割を、意に反して押し付けられたのではなくて、自由意志で選びとっています。

そして、二人とも一般的な社会通念に縛られずに行動できます。目的と信念のためなら、法を無視することも恐れず、社会を縦横無尽に超越します。
スパイもののヒーローには、そういったアウトサイダー的な側面があって、そういう意味では、ジェームズ・ボンドとジェイソン・ボーンは、アウトサイダーの究極的な姿です。
だから、たとえ対極的なキャラであっても、どこか共通している印象を受けるのかもしれませんね。

そういうわけで、このブログでもこの二人を比べてしまいました。
『ボンド』シリーズも第24作『スペクター』が控えていますし、『ボーン』シリーズもついにマット・デイモンとポール・グリーングラス監督が復帰して続編が製作されるようで。今後どんな風にそれぞれの「J.B.」のキャラクターが掘り下げられていくのか、楽しみです。.

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カテゴリー: 良いモノ語り, 良いモノ語り -映画

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