映画『誰よりも狙われた男』を観てきた (かんたん感想)

色々なところで書いてますが、私はジョン・ル・カレの小説の大ファンです。
映画『裏切りのサーカス』を入り口に、迷宮のように奥深い、冷戦時代のスパイ小説の世界にすっかりハマってしまいました。そんなル・カレが、9.11後の現代のテロリズムをめぐる情報の世界を描いた作品を出すと聞いて、これまた読まないわけにはいかないと。日本での出版時から間もなく、映画化の報も入っていましたし。

結局、忙しさもあって、原作は読み終えられないまま、先に映画で結末を知る形になってしまいましたが、近い時期に原作と映像を比べながら鑑賞できるというのも、なかなか悪くない体験だったかもしれない……と思うことにしてます。


映画公式サイト:http://nerawareta-otoko.jp/

イントロダクション

イギリスの情報機関の元職員であり、小説家であるジョン・ル・カレの2008年発表の同名原作の映画化。ル・カレといえば、前述のように、2011年にゲイリー・オールドマン主演で『裏切りのサーカス』という映画化作品があります。
今回の監督は、写真家という経歴も持つアントン・コービン(『コントロール』(07)など)。製作には、これまたル・カレの映画化作品『ナイロビの蜂』(05)を担当したことがあるゲイル・イーガン、そしてなんとル・カレご本人の息子であるスティーヴン・コーンウェルが参加しています。(ちなみにル・カレの本名はデイヴィッド・コーンウェル。)
フィリップ・シーモア・ホフマンは、これが最後の主演作となってしまいました。映画公開前にも、色々なところからそれを惜しむ声があったのを覚えています。理想に燃える弁護士役には、レイチェル・マクアダムス。裏のある銀行家の役には、ウィレム・デフォー(そういえばつい最近観た『ファーナス 訣別の朝』でも彼の姿を見たっけ)。鍵を握る謎の密入国者役には、グレゴリー・ドブリギン。あと、自分がこっそり注目しているところでは、ダニエル・ブリュールもホフマンの部下役で出演していたり。
米国での公開は、2014年7月25日。日本での封切りは2014年10月17日。

あらすじ

ドイツの港湾都市、ハンブルク――かつて9.11事件の実行犯達が潜伏し、テロを計画していた街。今なおテロへの監視が厳しいその都市で、深夜、一人の男(演: グレゴリー・ドブリギン)がひっそりと水中から港に上がり、やがて雑踏の中に彷徨いだした。
情報機関でテロ対策チームを率いるギュンター・バッハマン(演: フィリップ・シーモア・ホフマン)は、その男に注目し、素性を調べる。名前はイッサ・カルポフ、チェチェン出身、イスラム過激派と目され、投獄された過去を持っていた。バッハマンはイッサを追跡しつつ、あえて泳がせることにする。わざわざドイツに来たイッサが、テロ組織の大物に通じる糸口になると考えていたからだった。
一方、イッサはトルコ系の移民の親子の家に居候する。移民のドイツ市民権の取得を支援する人権団体の弁護士、アナベル・リヒター(演:レイチェル・マクアダムス)は、親子に頼まれてイッサと会う。そこで彼女は、イッサがハンブルクにやってきた目的を知る。トミー・ブルー(演: ウィレム・デフォー)という男が経営する市内の銀行に、イッサの父親であり、既に亡くなったロシアの軍人が預けた莫大な額の金があるのだった――。

〈↓ネタバレあり Spoiler Alert!↓〉
・映画『誰よりも狙われた男』

レビュー

土地、国、時期が持つ意味

映画の冒頭、汚れた水が打ちつける港の岸壁をバックに、ハンブルクという街について解説する字幕が表示されます。たとえ事前知識が無い観客でも、かつて9.11テロの実行犯がテロの前にここに潜伏していたこと、欧米諸国は同じ轍を踏むまいと監視を徹底していること、そして作品の舞台としてこの街が選ばれたのは偶然ではないこと、を学びます。
原作には、ギュンター・バッハマンのこんな印象深いセリフがあります。

「九・一一が起きたとき、グラウンドゼロはふたつできた」バッハマンは告げた。部屋の片方の端にいたかと思うと、今度は奥に行き、彼らがいるまえの垂木の下に精霊(ジンニ)さながらひょいと現われ、手を振ってことばを強調しながら話した。「ひとつのグラウンドゼロはニューヨークに、そしてあまり耳にしないもう一方のグラウンドゼロは、ここハンブルクにできた」
――67ページ(ハードカバー版)

そういうような重みづけが、この作品では暗に行われています。

また、ハンブルクは移民の街という一面もあります。そもそもドイツという国自体に、移民が多く押し寄せています。東ヨーロッパから、アジアから。多様な価値観を受け入れながら、一方でテロの不安にも対処しなければならない国。
真に困窮している善なる人と、過激な意図を潜ませている人とを、果たして本当に見極められるのか。誰がそれを調べるのか。どこまで調べたら確信できるのか。本作のスパイ達は、そういう問題にも直面しています。

ところでスパイといえば、本来現代のドイツでは、「国民のプライバシーを侵害するスパイ活動というのはご法度」という強力な体面があります。まずナチス時代があり、さらにベルリンの壁が崩壊したことで、東ドイツ時代のシュタージという秘密警察がいかに国民の生活を丸裸にして大規模に監視していたかということが、全ドイツに知れ渡りました。それ以来、諜報員というのは認められない存在だという空気が出来上がっているようです。
もちろん、実際にはいわゆるスパイ組織に当たるものはあるんですけれど。バッハマンらが所属する連邦憲法擁護庁(BfV)とか。劇中のバッハマンも、本来自分達は存在しないはずの人間であることを、自覚している節があります。

現実世界で、このドイツのいわば「スパイアレルギー」のようなものが顕在したのは、2013年、あのエドワード・スノーデンが巻き起こした大スキャンダルだと記憶しています。メルケル首相の携帯電話(を含む先進国の要人の電話)を、アメリカが盗聴していた疑いが持ち上がり、ドイツではアメリカの情報活動への不信感が爆発。国際問題に発展し、挙句の果てには、「ドイツ国内にいる外国人スパイの名簿を全部出せ」と各国に要求したとかしてないとか。
原作が書かれたのは2008年ですが、バッハマンがアメリカ(CIA)に対して持っている不信感というのは、今の状況にも通じています。(映画製作時に上記の事件が意図的に反映されてたどうかは分かりませんが。)
さらに言えば、イギリスの情報機関を描いたル・カレの過去の作品でも、CIAというのは「いけすかない、けど上手く付き合わないといけない連中」として描写されています。冷戦時代、イギリスはアメリカに情報の面で遅れをとっていたので。
映画では、原作よりもかなり早くCIAのマーサが登場しており、それによってバッハマンとの緊張感をはらんだ関係がより強く印象付けられています。
テロとの闘いについての、国ごとの立場の違いというのが、この作品では個人の関係を通して、浮き彫りにされているわけです。

誰よりも狙われる個人

私は、原作者のジョン・ル・カレが書くスパイ小説は、いつも「個人」というものがキーワードとしてあると思ってます。
自分自身の生活がある個人。他人とは対比される独自の人生を歩んできた個人。自分の感情を持っている個人。
そして、社会と自分との間で葛藤に直面する個人。その末に、尊厳を奪われる個人。

小説『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963)の、文庫版の訳者あとがきに、ル・カレのこんなコメントが載っています。

「僕がこの小説で、西欧自由主義国に示したかったもっとも重要で唯一のものは、個人は思想よりも大切だという考え方です。これを反共的な観念だとの一語で片付けてしまうのは、怖ろしい誤りです。どのような社会にあっても、大衆の利益のために個人を犠牲にして顧りみない思想ほど危険なものはありません。現在闘われている冷戦を見て、もっとも痛切に感じられるアイロニーは、個人が銃弾同然に扱われている事実です。われわれは西欧デモクラシー体制の維持という大義名分で、その主義そのものの放棄を強いられているのが現状です。東西両陣営のスパイ戦指導者は、書類の上で作戦計画を樹立していますが、いつなんどき、同じその書類ひとつの力で、われわれ国民が弾薬に変えられないともかぎりません」
――332ページ

この言葉の通り、冷戦時代に書かれた彼のスパイ小説、例えば『寒い国から帰ってきたスパイ』や「スマイリー三部作」などでは、国家・体制・社会という大きな利益のために犠牲にさせられた個人の悲劇が描かれます。

冷戦は終わり、テロとの闘いが始まりました。しかし、この悲劇は実は形を変えただけで、今も続いているのでは、ということが、本作からは読み取れると思います。
まず作品のタイトルからしてそうです。『誰よりも狙われた男』。原題は“A Most Wanted Man”。単数形。個人についてのストーリー。
実際に、今作のラストでも、個人が犠牲になります。命を落としたわけではありませんが、もしかしたらそれよりもずっと恐ろしいかもしれない事態に引きずり込まれて、消えていきます。
そして、あともう少しのところで、全ての希望を奪われてしまったバッハマン、アナベル、ブルー達。残された者達の喪失感、敗北感、悲しみ。

個人的にル・カレの作品の醍醐味とは、やっぱりこの喪失感の大きいラストシーンだと思います。「取り返しのつかなさ」(irrecoverableness)とも言いますか、そういった感情を読者に突きつけるんです。
そして、その悲劇を通じて、今この世界で何が起きているかについて、この作品は現実を知らせています。

テロの闘いとは、限りなく曖昧になった「悪者」との闘い

今の世界は、「個人」のあり方が今までになく変わってきている時代だと私は考えています。
要するに、「個人」が「国家」の敵になりうるんです。テロリストとして。
これまで国がする戦争とは、別の国や地域に対してのものでした。一方で、個人達が作り上げる反社会的な組織は、例えばマフィアなどに留まって、それらは別に「国家」と戦争することが目的なわけではありませんでした。
その様式が崩れ始めたのは、おそらく冷戦が終わってから。蓋をされてきた民族問題が、世界各地で一斉に火を噴き始めます。あるいは、日本ではカルト思想で結びついた個人達が、国家転覆を企てるようになります。
そういうわけで、今は個人が国家の敵となりうる時代です。例えば、映画『007 スカイフォール』(2012)でも、それは認められています。

M「私が恐れている理由は、もはや私達には敵が分からないからです。彼らは地図上に存在していません。彼らは国ではありません。彼らは個人なのです。」
(I’m frightened because our enemies are no longer known to us.They do not exist on a map. They are not nations. They are individuals.)

国が国境という枠にはめられるものとしたら、個人はそれをやすやすと飛び越えていきます。そして、やすやすと一般の群衆の中に紛れていきます。だから、既存の国家の情報機関が、彼らと闘うのは非常に難しい。誰が敵で、誰が罪の無い一般人なのか、見極めるのが本当に難しい。
最近でこそ、シリアやイラクで過激派が寄り集まってついに「国家」を自称するようにはなりました。しかし、あの地には、他の国から――欧米の先進国からも――続々と思想に共感した個人達が集まっていっています。国籍も人種も問わず。誰が過激思想に潜在的に共感しているのか? 誰がイスラム国入りしようとしているのか? 誰がイスラム国で「インターンシップ」を終えて母国でテロを企てているのか?
先進国家は、そういった個人を見つけ出すことに躍起になっています。テロとの闘いという名目で。

この映画では、アブドゥラ博士が最終的なキーパーソンとなっています。一見して、穏健な平和主義者で、誰からも尊敬されるイスラム教徒の有力者。実際に彼の行動のほとんどは、困窮した人を助ける善行。しかし、ほんの小さなところで、イスラム系テロ組織に資金を流している。
マーサは、「どんな善人にも悪の部分はある」(Every good man has a little bit bad)と言っています。あるいは原作には、こんな文章があります。

「ですが、これらの事例でわかることは、善なる人間がみずからの仕事に必要な要素として、小さな悪を受け入れるということです。〈道しるべ〉[註:アブドゥラの暗号名]も、説得力のある証拠を見るかぎり、例外ではありません。それが二十パーセントという人もいるし、十二パーセント、十パーセント、あるいはわずか五パーセントという人もいるでしょう。しかし、その五パーセントは非常に悪いかもしれない、たとえ残りの九十五パーセントが非常によいものだとしても。[後略]」
――292-293ページ

マーサは、その“a little bit”、もしくは「五パーセント」の悪行の証拠さえ見つかれば、即座にそいつはテロへの加担者として逮捕すべきだと考えています。
しかし、それでは根本的な解決にはならない、少なくともバッハマンはそう考えています。本当に大事なのはテロネットワークの中枢に辿りつくことであり、そのために“a little bit bad”「五パーセント」を上手く受け入れて利用しなければならない、と。
でも、どちらが正義で理に適っているのかは、簡単には決められない問題です。

私達は、どうやって人を善か悪か判断しているのでしょう? あるいは、私達自身は、どれくらいの割合で善人で、どれくらいの割合で悪人なのでしょう?
9.11以来のテロとの闘いの本質には、この難しさがあるようです。その難しい闘いを終わらせようとして、どれだけの個人が犠牲になっていっているか、この作品はそれを鮮烈に描いていると思いました。

雑感

フィリップ・シーモア・ホフマン

恥ずかしながら、私のごく浅い映画鑑賞歴では、フィリップ・シーモア・ホフマンという人は、映画『M:i:III』でクセのある悪役を演じていたという程度の印象しかありませんでした。
この映画を観ると、彼以外にギュンター・バッハマンという役を演じられる俳優を想像できなくなります。映像では、ホフマンの映っているシーンが多かった印象があります。まるで、これが最後の作品になるからと分かっていたかのように、たくさんの彼の演技が、丁寧に映されています。あの人間臭い仕草。低くかすれた声。いつも失意と疲れとプロ意識を匂わせる、微妙な表情。素晴らしかったです。

原作との違い

いくつかありますが、全体的に言って、原作より展開が省略されたり合理化されたりしています。
当初からバッハマンの狙いがアブドゥラ博士であることが早い段階で示されていたのは、イッサを追う理由を分かりやすくするためでしょうか。序盤では、イッサの捜索・監視と並行で描かれている感じでしたね。
ブルーは、ホテルのロビーでアナベルと会談した後、早々にバッハマンに捉えられます。イッサとの会話まで録音されて。
リピッツァナー関連で言うと、原作にあった、イギリスの諜報員とのエピソードは完全に省略されてますね。ドイツとイギリスが同じ獲物を狙うという途中の構図は、映画ではドイツとアメリカの構図にまとめられています。これも分かりやすさのためですかね。
それにしても、ブルーのキャラはもう少し掘り下げても良かったかもしれませんね。中盤、アナベルとバッハマン、あるいはマーサなどの描写に時間が割かれて、ブルーが完全に蚊帳の外だった感じがしました。もう完全にリピッツァナーを動かすためだけのキャラとして割り切られてる感じ。

映像・ビジュアルについて

スパイ活動の映像での描き方が素晴らしかったです! 理想的だとすら思います。背景の使い方が上手いんです。
例えば、アナベルとブルーがホテルのロビーで席に着くシーン。画面手前にさりげなくバッハマンの助手フライが映ってます。気づかない観客もいるかもしれないレベル。その後の二人の会話中も、アングルが上手いことフライを収めていて、音声では伝わらない緊張感を観客に与えています。
また、イッサとアナベルが家を出て、駅に上がるシーン。列車がホームに入ってきて乗ろうとするところで、後ろに映っている階段から一人の男性が上がってきます。エキストラにしか見えません。しかし、警戒心の強い観客には不安を与える、絶妙な映り方。果たして彼は二人を尾行する監視要員でした。
挙げれば他にもまだまだありますが(中盤でアナベルを追う自転車。終盤で銀行の付近にさりげなく停車するマーサの車など)、とにかく、現実的なスパイのやり方を、その隠密さや地味さを損なうことなく上手く映像で映しています。今後、リアルさを志向するスパイ映画は、この作品を見習うべきですよ、ほんと。勝手に言ってますが。

他にも映像については、固定された静かなショットもあれば、手持ちカメラで激しく動く画もあったり、十数秒以上続く長めのショットもあれば、速いカット割りもあったり、と緩急つけている感じでした。


[2014/10/30: 以下追記]
ブクログに書いた、原作小説のレビューをここにも載せることにします。上記のレビューで書きたかったけど省いた視点の感想を、取り入れています。

テロとの闘いについて描いた本は色々ありますが、この作品はスパイ小説として、その本質にどこよりも迫っているように思いました。

印象的だったのが、劇中の出来事の発端が20世紀に遡れるというプロットです。
イッサとブルー、それぞれの父親の世代が冷戦の終わりに行った後ろ暗い企みが、時を経て不意に明るみに出て、息子の世代を翻弄しています。
実際のテロも9.11も、21世紀に降って湧いたものではなく、その原因は前世紀にあります。イスラム圏に対して、先進国がやってきたこと。それが巡り巡って、次の世代を脅かしている。アブドゥラ博士がブルーと初めて会った時の会話が、そのことを象徴しています。

テロとの闘いというと、どうやってそれを収めるか、どうやって悪者を見つけるかということばかりが考えられがちですが(劇中のCIAのように)、この作品ではそれ以前に、「その災禍を招いたのは誰だったか」ということが常に頭にあるようです。

それだからこそ、あのラストシーンがより皮肉と悲しさを帯びて見えてきます。

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