映画『ジェイソン・ボーン』三部作 総論編

――「ヒーロー」を変えたヒーロー


〈!ネタバレあり Spoiler Alert!〉
映画『ボーン・アイデンティティー』
映画『ボーン・スプレマシー』
映画『ボーン・アルティメイタム』

はじめに


初めてこの映画を観た時のことは、何となくですが覚えています。
残念ながらリアルタイムで、つまり劇場で観ていたわけではありませんでした。ただ約5年前に、テレビで『ボーン・アイデンティティー』(以下、『アイデンティティー』)が放送されていたのを観た時が最初です。当時から私はアクションの洋画が大好きでしたが、その時それを観たのは、ある種気まぐれみたいなものでした。
観ていて、知らないうちに惹きこまれたのを覚えています。派手なアクションがあるわけではない、ストーリーも複雑なわけではない……、それでも何か、他の大多数の映画には無いものを感じて、その後も妙に印象に残っていました。

例えば、『アイデンティティー』の序盤、スイスのアメリカ大使館でのシーン。ボーンは3人の警備員に囲まれてしまいますが、瞬く間に全員を床に打ち倒します。警報が鳴らされ、パニックが起きる館内。待機していた海兵隊まで出動します。
では、ハリウッドのアクション映画的にこの後ありそうな展開といえば? ボーンが海兵隊とドンパチを始めるとか、銃撃を華麗にくぐりぬけて大使館から脱出とか。確かにそういうことをやれば、それなりに見栄えの良いアクションシーンができるかもしれません。映画開始から約20分に置くにはちょうどよさそうな内容になるでしょう……いくらかのリアリティが犠牲なるかもしれませんが。
しかし、この映画にそんな展開はありませんでした。ボーンは代わりに、上のフロアに駆け上がり、昏倒させた警備員から無線機を奪い取り、避難経路を示すマップを壁から剥ぎ取った後、堂々とパニックの中を歩いて、出口を探すのです。避難する大使館職員は、その場に不釣り合いな格好をした男を見て一瞬怪訝に思いますが、呼び止めません。なぜなら、騒動の犯人がその男だとは誰も知りませんし、その男があまりに冷静な様子なので、危険を感じなかったからです。ボーンもそのことを分かっていたのでした。

同映画の中盤、ボーンの自宅のアパート。暗殺者カステルの気配を感じ取ったボーンが、キッチンから包丁を取り出し、部屋部屋を調べます。何も知らないマリーに出くわしたところで、彼はとっさにマリーの見えないところへ包丁を捨て、何事も無かった風を装います。この後本当に敵の暗殺者が現れ、格闘に発展しますが、先ほど捨てた包丁がそこでもう一度使われるという展開は、十分にありえるでしょう。その場合、包丁が後のファイトシーンへの布石として機能することになります。
しかし、その時ボーンがとっさに手にできたのは、至って普通のボールペンでした。しかも、それでナイフを持った敵を圧倒するのです。刃物同士のスリリングなファイトシーンになりうるところが、「ペンは剣より強し(物理)」な格闘シーンにしてしまうのです。

王道を外す

要するに何が言いたいかと言うと、私が思ったのは、この映画は、ある種王道の設定を使用しながら、ところどころで絶妙にそれを外してくるということです。それなりに大規模な予算を貰っているハリウッド映画でありながら、同じ条件のこれまでの映画とは何かが異なっています。

主演のマット・デイモンは、『ボーン・アルティメイタム』(以下、『アルティメイタム』)のインタビューの中で、次のように語っています。

Q:3作すべてが大ヒットしているこのシリーズですが、人気の秘密はどこにあると思いますか?

それはこの作品がいかにも大味なハリウッドの娯楽作品! という感じじゃないところに魅力があるからだと思うよ。最初の作品を監督したダグ・リーマンも、ポール・グリーングラスも、もともとはインディペンデント映画の監督なんだ。確かに大作ではあるんだけど、たくさんの予算をかけて撮る映画の大胆さや、華やかさに加えて、インディペンデンス映画っぽいテイストも含まれているから、それがミックスされてとっても面白い作品になっているんじゃないかな。
――出典:http://www.cinematoday.jp/page/A0001548

また、ヒロイン役のフランカ・ポテンテも同様に、映画のメイキング映像などの中で、このシリーズはサスペンス・スリラー映画の常識(クリシェ)を破ることを目指した、と語っています。

たぶん、「王道からの逸脱」は、これが理由かもしれません。個人的には、第二作『ボーン・スプレマシー』(以下、『スプレマシー』)以降で、その方向性はより洗練された気がします。
ともかく、このボーン三部作は、今までにあったものとは違う映画を作ることを意図して作られたものだと見ていいでしょう。実際、ヒロインが2作目で死亡したり、主人公の謝罪のためだけに尺の三分の一を使ったり、異例といえば異例づくしの映画です。

では、この三部作は、王道を外すことで具体的に何を描こうとしていたのでしょうか?
ここまで述べてきたことは、表現の”方法”に関することだと思います。しかし、表現にはその対象があるわけで、その対象のことも考えなくてはなりません。
このボーン・トリロジーが描いているものは?
そう、まさにタイトルにある通り、「ジェイソン・ボーン」という男の生き様です。
この映画はジェイソン・ボーンのための物語です。この三部作のことを考えるうえで、このキャラクターのことを考えないわけにはいきません。
この記事では、それを掘り下げていきます。

「姿を消す」ヒーロー

三部作の一作目、『ボーン・アイデンティティー』のDVDパッケージの裏面を見ると、次のようなコピーが書かれています。

ニュー・アクション・ヒーロー誕生 !!

アクション・ヒーロー。
アーノルド・シュワルツェネッガーやブルース・ウィリス、チャック・ノリス、シルヴェスター・スタローン、スティーブン・セガール、ブルース・リー、クリント・イーストウッド……などのように、キャスト名自体がその代名詞になった人もいます。
インディアナ・ジョーンズやエレン・リプリー、ロボコップ、スネーク・プリスキンなどのように、多くの映画ファンに印象を残したヒーローもいます。
さらに、スパイものや殺し屋ものの範疇で言っても、ジェームズ・ボンドやイーサン・ハント、ニキータ、レオンなどのように、ジャンルを語る上で欠くことのできないキャラもいます。
この映画が米国で公開された2002年、(あるいは日本で公開された2003年の時点で、)少なくとも映画関係者の間では、マット・デイモン演じるジェイソン・ボーンは、この偉大な系譜に加わることを、次世代を担う新たなヒーローになることを期待されていたとも考えられます。

タフでありながら、知的でもあり、寡黙でありながら、人間味も持ち合わせる元殺し屋は、確かに魅力的です。
しかし、私にはジェイソン・ボーンというキャラは、それだけではないように思えます。ジェイソン・ボーンには、他の大半のアクション・ヒーローと異なっている際立った点があると思います。

その一つが、彼の「神出鬼没」性です。
主人公とは、基本的に観客と共にある存在です。観客は、主人公の側から物語世界を見て、主人公が何を考え感じているかを基準として、世界を理解しようと努めます。
しかし、この映画では、主人公たるボーンが、しばしば観客(と劇中の他のキャラ)の目の前からフッと姿を消し、そしてまた突然どこかに現れます。
いつボーンが姿を消し、次にどこに現れるのか、誰にも言い当てることはできません。
それを象徴するシーンを挙げてみると……、(時間表示は、DVD版での再生時間に準拠しています)

    『ボーン・アイデンティティー』

  1. 4:50あたり、漁船でジャンカルロがテーブルに戻り、テーブルの上からボーンがいなくなっていることに気付くシーン。 →直後にボーンが現れ襲い掛かる。
  2. 9:45あたり、ボーンが港を歩いていて、カメラの手前を車と通行人が通り過ぎた後、姿を消している。(……はずですが、このとき、車の陰をマット・デイモンが身をかがめて並走するのがこっそり映っちゃってます。恥ずかしいミスですよね……) →9:55あたり、ボーンは列車に乗っている。
  3. 1:40:10あたり、ボーンは雨どいをよじ登った後、姿を消す。 →1:41:36あたり、ボーンはコンクリンの背後をとって現れる。
  4. 1:49:31あたり、ボーンがスクリーンの右から歩いてきて左に消えた直後、カメラが後を追うようにパンすると、ボーンの姿が無くなっている。 →1:50:56あたり、マリーの店の戸口に唐突に姿を現す。
    『ボーン・スプレマシー』

  1. 36:54あたり、車を運転しているカットを最後に、しばらくボーンの姿が映らなくなる。 →38:54あたり、ジャーダの背後で銃を突き付けるボーンが急に現れる。既に先手も打ってある。
  2. 50:47あたり、「あんたの隣に立ってる」のセリフを最後に、ボーンが屋上から姿を消している。 →53:55あたり、ボーンは電話でニッキーに指示を与えるが、まだどこにいるか分からない。 →54:49あたり、ニッキーと同じトラムに乗るボーンの姿が映される。
  3. 1:12:03あたり、警察から逃げ切ったボーンのカットを最後に、しばらくボーンの姿が映らなくなる。 →1:15:08あたり、アボットの背後の暗闇からボーンがスッと現れる。
  4. 1:34:12あたり、ボーンがトンネルの明るい出口へと歩き去っていった後、しばらくボーンの姿が映らなくなる。 →1:35:45あたり、ボーンがいつの間にかネスキーの娘の部屋にいる。
    『ボーン・アルティメイタム』

  1. 3:51あたり、ボーンが警官を残して歩き去り、タイトルロゴが出た後、時間は6週間後に飛んでいる。 →7:41あたり、ボーンがマーティンの部屋に先にいる。
  2. 19:49あたり、監視班が映像情報を失ったことを聞きつけた後、ボーンは画面外へ歩み去る。 →20:30あたり、突然ロスの前に姿を現す。
  3. 37:19あたり、トラップを用意した後、ボーンは画面から消える。 →38:21あたり、ブラインドの隙間から室内を覗き見るボーンの目が映る。その後、襲いかかる。
  4. 1:22:37あたり、どこかの通路を通る後ろ姿を最後に、ボーンの姿が消える。 →1:23:19あたり、ヴォーセンの携帯にどこからか電話をかけるボーン。場所はまだ判然としない。 →1:23:54あたり、実はヴォーセンのオフィスにいたボーン。

これらは、単にボーンの暗殺者としての能力の高さを示しているだけではないと思います。
映画を観ていくにつれ、観客はボーンの感情に共感を深めることができます。少なくとも映像はそれを意図した伝え方をしています。それにも関わらず、その主人公は唐突に私達の前からいなくなる。大体の場合において、ボーンは他のキャラに出し抜かれないように、先手を打つためにそれをしているわけですが、同時にその度にボーンは、私達観客をも欺いているわけです。
これもまた、これまでのアクション映画ではあまりないような特徴です。もしこれが一つの特定の作品だけのことだったら、あまり考慮に値しないかもしれませんが、シリーズが進んで監督が変わってもなお、このボーンの神出鬼没性は引き続き受け継がれています。作り手の間では、これがボーンの特徴だと認識されていると言って良いようです。
なぜ彼はせわしなく場所を移動するのでしょうか?

「陸の上」で

ところで、ですが、三部作を観た人なら、三部作の最初と最後が視覚的にリンクしていることに気付きます。
海の上を漂流する男の映像から始まり、海の中をどこかへと泳ぎ去っていく男の映像で終わる映画。
これ、少し見方を変えてみると、私達観客は、ボーンがどこから来てどこへ行った男なのか、本当の意味では知らないということにならないでしょうか。

確かにボーンの本名はデイヴィッド・ウェッブとちゃんと説明されます。『アイデンティティー』冒頭より前の時間の出来事もフラッシュバックで説明されます。
しかし、私達観客は、その時からボーンのことを知っていたわけではありません。それはボーンが取り戻した過去であり、再発見した自己であり、私達はそれをある種「又聞き」しているだけです。
私達がよく知っているのは、記憶を失いさまよい歩いている間のジェイソン・ボーンであり、正直言ってデイヴィッド・ウェッブとしての人格への親しみは無いでしょう。この映画は、「冷酷な殺し屋としての姿を(現在の時間軸として)描写した後、ふとしたきっかけで彼が改心に向かう様を描く」というような見せ方をしていないのです。
そう考えると、この孤独な元殺し屋には、実は見えてないことが多くあることに気づきます。

もう少し整理してみましょう。
映画開始時、ボーンは記憶を失った状態で海の中から現れました。そして、最後には、自らのアイデンティティーを取り戻した状態で海に消えます。
有り体に言ってしまえば、この三部作が描写しているのは、「ジェイソン・ボーン」(あるいは「デイヴィッド・ウェッブ」)なる存在が、「海の中」から現れ出て、自らの同一性を求めて「陸の上」で活動していた期間だといえます。
「陸の上」で、ジェイソン・ボーンは多くの人々(観客を含む)にその姿を目撃され、人間と接触しています。つまり、「陸の上」とは私達の社会です。
これに対し、「海の中」は、私達には見通しが効きません。海に飛び込んだボーンは完全に一人で、私達も彼がどこへ行ったか分かりません。「海の中」とは、私達の意識に上らない領域といえます。

なので、この映画のストーリーを抽象化してみると、「ある一人の正体不明の存在が、私達の社会の上に顕在化していた時間を描写したもの」となります。

ボーンの本当の居場所はどこなのでしょう? ボーンは、「陸の上」にいる間も、本当に「陸の上」に居ついてはいないように見えます。もちろん、文字通りの意味では彼はどこかの陸で生きていくでしょうが、彼は作品を通して、居場所を転々と変えていて、どこにも落ち着ける場所がありません。一時的にも、長期的にも。
つまり、ジェイソン・ボーンというヒーローは、私達の社会から根本的に遊離している存在です。だからこそ、前述した神出鬼没性が成り立つのではないでしょうか。
ボーンを捜索し狙っている人々は「社会」です。また、スクリーンで彼の生き様を見届ける私達もやはり「社会」の人間です。彼は、CIAの捜索網(grid)からたやすく抜け落ちると同時に、社会に生きる人間の意識の上からもたやすくすり抜けていくのです。
私達が皆社会の中で一定の位置を持っているとしたら、ボーンは私達に「位置づけられる」ことを避けているといえます。『アルティメイタム』で、CIAがボーンの最終確認地点(last known fixed position)をしきりに更新することはできても、彼のリアルタイムのロケーションをなかなか特定できないことがそれを象徴しています。

……以上が、ジェイソン・ボーンというヒーローの特異さです。
従来のヒーローのようにスクリーンで常に存在感を放つことで観客に安心を与える存在ではなく、溢れ出るマッチョイズムでもって敵を圧倒しまくっていく存在でもない。本質的に私達の社会から遊離している存在である、といえると私は思います。

では、彼は一体何のために私達の社会に姿を現したのでしょう。「陸の上」で、彼は何をしていたのでしょう。
この映画が伝えるメッセージとなるところはまさにそこです。なので、続いてそのことについて考察したいと思います。

[補足;ジェイソン・ボーン以外にも「消える」アクション・ヒーローはいないわけではありません。
例えば、映画『レオン』(1994)の冒頭で、殺し屋の主人公レオンのターゲットにされた男の手下が、一人、また一人と殺されていく場面がありますが、そこではレオンの位置はあまり観客には明かされず、どこから狙われているか分からないターゲット側の恐怖が中心に描かれています。しかし、このようなレオンの「消える」描写は、その後はそれほど中心的には描かれません。
『アルティメイタム』と同じ2007年に公開された映画『ザ・シューター/極大射程』の主人公ボブ・リー・スワガー。マーク・ウォールバーグ演じる彼は、凄腕のスナイパーであり、しばしば観客にもどこから狙撃をしているのか分からないシーンがあります。これは、姿を隠してじっと獲物を狙うスナイパーというキャラクターの特徴を表現するための方法です。スワガーの経歴もボーンと似たところがあって、国を信用して仕事をしていたところを陰謀にはめられ、狙われながらも黒幕を探すために立ち上がるというストーリーになっています。]

真実を求める

この三部作においての敵役は、それぞれの作品で異なります。
しかし、共通して言えることは、ボーンがいつも個人であるのに対し、相手は組織、複数、権力側であることです。
よって、三部作で描かれる闘いの構造は、個人対権力であるといえます。

ただし、もう少し厳密な言い方もできると思います。
三部作に共通して、ジェイソン・ボーンの行動の目的は、「自分の過去に何が起きたか」を確かめることです。
その過去の真実についての情報は、いずれの場合も敵である権力側が握っています。彼らにとって、その真実が外に漏れてしまうことは致命的です。なので、必死にその真実をボーンから隠そうとします。

『アイデンティティー』の場合、コンクリンは意図してボーンの過去を彼から隠そうとしていたわけではありません。なぜなら、ギリギリまでボーンの記憶喪失という症状を知らなかったからです。それでも、結果的にコンクリンは彼を消そうとすることで、トレッドストーンを守ろうとしています。
『スプレマシー』では、真の黒幕はアボットとグレツコフであると判明します。アボットは完全に保身のために、ボーン(とランディ達)が最初のミッションの真実に辿り着く前に彼を抹消しようとします。
『アルティメイタム』の場合、ダニエルズらはボーンの過去に関する情報を直接握っています。それと同時にブラックブライアーの機密にも触れているので、ヴォーセンやクレイマーはダニエルズらを消すことによって、ボーンが真実に辿り着くことを阻止しているわけです。しかし、後にニッキ―やランディーはボーンに加勢することを決めます。

つまり、ボーンは真実を求めて行動しているのです。『スプレマシー』終盤の、このボーンのセリフがそれを象徴しています。

「何かを知ることで、人生は変わる、そうだろう? 自分が愛するものを奪われた時…その真実を知りたくなる」
(It changes things, that knowledge, doesn’t it? When what you love gets taken from you… you want to know the truth.)

――1:38:40以降(和訳は菊地浩司および栗原とみ子を参考に、ayh1r0による)

真実(the truth)という言葉は、私にはこの三部作の裏テーマのように思えます。
私達には誰しも、真実への志向性があります。
自分がどういう人間でありたいか、どういう行動をしたいかという決断を自分でしたい時、わざわざ間違いだと分かっている情報に基づきたいと思う人はいません。間違った情報に基づいて行動する個体は、きっと不利益を被ります。だから私達は、根拠とする情報ができるだけ真実であってほしいと願うのです。
これは一個体の場合にも言えますし、広く組織や社会にも当てはまります。民主主義は、国民に正しい情報が完全に与えられていなければ、上手く機能しない制度です。

あるいは、真実を隠している一部の人間だけがアドバンテージを持って、独占的に利益を得るということもあります。私達には、そういうことを許せないと思う感情があります。
ただし、真実を握っているのが自分より強い人々であった場合、それに対する反応は主に2種類に分かれます。彼らに立ち向かって真実を明かすことを求めていくか、諦めて彼らのアドバンテージの言いなりになっていくか。

で、ジェイソン・ボーンは、前者を選んだわけです。
彼は自分が誰であるかを知りたかった。他人に強制された偽りの人格ではなく、自分自身で決めた人生を生きたかった。そのために、彼は真実を必要とします。それは権力が握っています。
なので、ジェイソン・ボーン三部作で描かれるのは、「真実を求める側」と「真実を隠す側」との闘いとも言えます。

時代

なぜ『ボーン』三部作はこれをテーマとしているのでしょう。
きっと最も大きな要因は「時代」です。『アイデンティティー』が公開された2002年の前年には、アメリカという国を決定的に変えた9.11同時多発テロがありました。また、『スプレマシー』が公開された2004年の前年に、イラク戦争が始まっています。
『ボーン』シリーズには、これらのアメリカの国内事情および国際情勢の影響が見てとれますし、製作陣もそれを明らかに認めています。ポール・グリーングラスは、『スプレマシー』のオーディオコメンタリーで、こんな風に話しています。

面白いことに、この映画を公開した時期、議会では公聴会が開かれていた。9.11公聴会や、イラク戦争に突入したイギリスとアメリカの様々な公聴会。そこで私達の政府ーー特に情報機関ーーは、私達を深く失望させた。極めて重要なことについての真実を話してくれなかった、たとえば、「なぜ我々は戦争をしたのか」。
(What’s interesting about this film is that it comes out at a time when the Congressional inquiry, the 9/11 inquiry, the various inquiries in Britain and America into the war in Iraq have shown that our governments – particularly the secret parts – have profoundly let us down, have not told us the truth about very, very important things like why we went to war.)
――57:55以降(和訳はayh1r0)

国民の愛国感情の高まりを基盤に、イラク派兵を決めた米ブッシュ政権。それを信じてついて行った国民がその後得たのは、開戦の根拠となったはずの大量破壊兵器はイラクに存在しなかったという結論と、現地人、アメリカ人などの多くの命が失われてしまったという現実です。

先ほど引用した『スプレマシー』のセリフも、明らかにこのことを意識しています。戦争に送り出した大切な人を失った遺族、PTSDを抱えて本国に戻ってきた兵士。彼らは真実を知りたいと思いました。「なぜ私達はあそこへ行ったのか」、「私達がしたことは一体何だったのか」。しかし、答えは与えられず、自分達で見つけ出すしかありませんでした。
特に『スプレマシー』と『アルティメイタム』からは、ゼロ年代のそういったアメリカ人の政府への不信感、そして戦争への反省意識が色濃く感じられます。

『アルティメイタム』でカギとなるキーワードに、「ブラックブライアー作戦」があります。
単語自体は、『アイデンティティー』のラストでちらりと登場しています。その時点では、映画の作り手的には、続編への伏線にもできるし、無視することもできる程度の要素でした。が、『アルティメイタム』ではこれが拾われて、その全貌が物語の重要な柱となります。
「トレッドストーン」のターゲットは、アメリカに害をなす「外国人」でした。対して、「ブラックブライアー」は、アメリカ国民をもターゲットにしています。
自国を守るために自国民を殺す。
この矛盾した構造に、大義の見えない戦争を経験し、テロへのパラノイアを煽られてきたアメリカ国民の不信感が、凝縮されているかのようです。
それに、この『アルティメイタム』で暗殺のターゲットとなっているのは、アメリカ人(ダニエルズ)とイギリス人(ロス)。アメリカの観客にとって、自国民と同盟国民です。この映画は、ロシア、イギリス、スペイン、モロッコなど、さまざまな外国が舞台となりますが、よくよく考えると映画のストーリーはアメリカ人にとって非常に「内輪的」です。アメリカの国家機密を抱えて外国で逃亡するアメリカ人を捜すアメリカ人と消そうとするアメリカ人。もはやこの映画は、外国人を敵役にしてはいないんです。ロシアも北朝鮮もイランもイラクも中国もイスラム過激派も、この映画では敵として取り扱われていません。
この映画の視点は、アメリカという国の内面に向けられています。

(ちなみに『アイデンティティー』の場合、撮影の大部分が9.11の以前でした(直前には試写がありました)。なので、この映画は、テロとかそれへの報復とかいったことはまだ扱っていません。
パッケージ版の付録の特典インタビューなどを見ていると、一気に見通しの立たなくなった世界情勢、あるいは時代に合わせた物語を作ろうとしていた当時の製作陣の苦労がうかがえます。)

“自由のヒーロー”

先にも引用したマット・デイモンのインタビューの続きを見ると、次のような発言があります。

Q:2002年から演じ続けている主人公“ボーン”について、あなたの思いを聞かせてください。

僕が演じているボーンは、まさにアメリカの現在を投影しているようなキャラクターだと思う。この作品の最後で、ボーンが語るセリフがあるんだ。詳しくは言えないんだけど、自分はそのセリフを話しているときに、今、アメリカ国民が強く感じていることを代弁しているような気持ちになったんだ。
――出典:http://www.cinematoday.jp/page/A0001548

マットが言っているのは、間違いなくこのシーンのことでしょう。ジェイソン・ボーンがパズに対して言う、スクリーン上での最後のセリフです。

「お前は俺を殺さなきゃいけない理由を分かっているのか?」
(Do you even know why you’re supposed to kill me?)
「俺達を見ろ。お前が奴らにさせられることに目を向けろ」
(Look at us. Look at what they make you give.)

――1:43:14以降(和訳は平田勝茂を参考に、ayh1r0による)

シリーズを観てきた観客なら、これが『アイデンティティー』の教授のセリフの引用であると分かりますが、このシーンでは同じセリフがより深さを持って聞こえてきます。

これは、ボーンが初めてにして唯一、観客にメッセージを伝えるシーンです。第4の壁を破って観客に直接語りかけるシーンです。このセリフは、パズにかけられていると同時に、私達観客にも向けられています。
実際、このシーンのカメラワークもそれを意図した撮り方をしていそうです。パズを撮るショットは、まるで動揺するパズの内心を表現するかのように、手ブレしており、画面手前にはボーンの姿が映っています。これに対して、最後のセリフを言うボーンを映すショットは、手ブレが少なく、手前に遮るものがありません。つまり、ここは観客とボーンが正面から向き合うタイミングなのです。
彼はこの言葉をパズに、そして私達「社会」の人間に残して、「海の中」に消えていきます。私達が生きる「陸の上」から、どこかに去っていきます。
そうして、彼は名実ともに現代のヒーローになるのです。

彼が「陸の上」でやったことは、並大抵のものじゃありません。
前述したストーリーの抽象化をもう一度してみると、この映画は「ある一人の正体不明の存在が、私達の社会の上に顕在化し、CIAの機密情報を国民に晒した後、またどこかへ消えていった」お話となります。
そういうわけで、少なくとも表面的に見ても、ジェイソン・ボーンは時代が求めていたヒーローです。国民に対して重大な秘密を隠していた政府に、たった一人で殴り込みに行って、その秘密を暴いたわけですから。現実の、政府や権力に対する不信感を持ったアメリカ市民は、彼の行動に共感し、憧れます。
ちょっとかっこつけた言い方をして、彼を民衆の集合的無意識から生まれ出でたヒーローなんて呼ぶこともできます。国民の意識下に渦巻いていた、真実への志向性。それが具現化して「ジェイソン・ボーン」という存在となり、権力に対して立ち上がったのだということもできます。
実際、そういう役割をジェイソン・ボーンが果たしたといえるので、これは合っています。

でも、やっぱり私は、ジェイソン・ボーンというヒーローのかっこよさの本質は、その自由さにあると思いたいです。
私達が日々様々な人との人間関係に苦慮し、社会の問題に忙殺されている一方で、彼は何物にもとらわれていません。私達が、地球上のどこかの地点でそれぞれ社会によってがんじがらめにされて動けないのに対し、彼はスイスイと国境を越えていきます。
しかも、これは自分勝手で傍若無人な態度によるものではまったくありません。彼の行動の根底には、徹底した自己反省と強い決意があります。自分がしたことは間違っていたと思うから、人殺しをやめ、絶対に真実に辿り着きたいと思うから、途中で諦めないんです。

彼は社会のあらゆるしがらみから自由であると同時に、本当の自由を求めて行動します。それは、自分自身で人生を選択する自由です。“Liberty”の意味での自由を既に得ているとしたら、彼は”Freedom”の意味での自由を追い求めているんです。
自分らしさとは何か、真実はどこで見つかるのか、そういうことを社会の中で日々悩み苦しんで動けない私達に対し、海のどこかから現れた男は、「それはこういうことだ」と身をもって鮮やかに示します。
彼は、世界の自由とか平和とかいった大きすぎて疑わしいものを守るヒーローではなく、また敵には何をしても良いと信じ込んでいるヒーローでもありません。
この複雑化した世界で、個人の人間にとってより切実なもののために、 孤独に闘うヒーローです。

少なくとも私は、「ヒーロー」と言ったら今後も一生、彼のことを思い出すと思います。

おわりに

これにて、映画『ジェイソン・ボーン』三部作 総論編は終了です。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
今後の各論編で扱うトピックは、「あえて比べるジェームズ・ボンドとジェイソン・ボーン」、「ジェイソン・ボーンに学ぶ諜報テクニック」、「ボーン映画の撮影技法を考える」、「三部作の間の映像上の共通点を探る」……などを予定しております。ぼちぼち更新していくつもりです。でも、いつ終わるのやら……。

[2014/9/1 微妙に追記]

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