映画『悪の法則』を観てきた (かんたん感想)

先日、最近の観たい映画についてのポストを投稿しましたが、それ以来、「悪の法則_感想」という検索ワード経由でこのブログに来られた方がチラホラ見られるようになりました。うーん、感想なんてまだ書いてもいないのに申し訳ないなぁ、と…。(ちなみに日本での公開前の出来事です。きっと原語版か試写を見ての感想を探した方が来られたんでしょうね。)
そういうわけで、複数の人から暗に「観ろよ」と言われた気がしたので。というのは冗談で、やっぱり気になったので、観てきましたよ。『悪の法則』

映画『悪の法則』ポスター

映画『悪の法則』ポスター

映画『悪の法則』オフィシャルサイト http://www.foxmovies.jp/akuno-housoku/

イントロダクション

巨匠リドリー・スコットの最新監督作。本格的なクライムスリラーです。脚本は、前回も紹介しましたが、小説家のコーマック・マッカーシー。私はこれ目当てで見ました。
そして、キャストの豪華なこと豪華なこと。主人公の弁護士”カウンセラー”には、マイケル・ファスベンダー。ヒロインはペネロペ・クルス。そしてその周りを固めるのがキャメロン・ディアスブラッド・ピット、そしてハビエル・バルデム。ハビエルといえば、映画『ノーカントリー』に出ていましたし、マッカーシーと縁がありますね。
米国での公開は、2013年10月25日。日本での公開は、同年11月15日。

あらすじ

有能な弁護士、通称”カウンセラー”と呼ばれる男(演: マイケル・ファスベンダー)は、ローラ(演: ペネロペ・クルス)と交際している。プロポーズのために高価なダイヤモンドの指輪を購入するが、その裏では、派手好きな実業家ライナー(演: ハビエル・バルデム)と組んで、麻薬ビジネスで利益を上げようとしていた。ライナーから紹介された麻薬の仲買人ウェストリー(演: ブラッド・ピット)は、裏社会の厳しさと非情さをカウンセラーに警告するが、彼はそれを受け入れていた。少なくとも表面的には。
ライナーは、彼と同棲している魅惑の美人マルキナ(演: キャメロン・ディアス)のことをカウンセラーに話す。彼女の魔性ともいうべき一面のことを聞かされても、カウンセラーには遠い世界の出来事としか思えなかった。ローラもマルキナと会話するが、彼女はマルキナとの間に、本質的な価値観の違いを垣間見るのだった。
カウンセラーらの計画は、着々と進んでいるように見えた。しかし、カウンセラーがある顧客の依頼で釈放させた男が、夜の道路上で何者かに殺害される。その男は、まさにカウンセラー達が取引しようとしていた、メキシコの麻薬カルテルの運び屋だった。間もなくカルテルの麻薬も盗まれ、疑いのかかったカウンセラー達の身に容赦なく危険が迫る――。

レビュー

〈!ネタバレあり Spoiler Alert!〉
映画『悪の法則』

脚本担当コーマック・マッカーシーの思想・問題意識

翻訳家の黒原敏行氏は、マッカーシーの小説『ザ・ロード』の訳者あとがきでこのように書いています。

 また本作は、タイトルからしてまさしく〈ロード・ノヴェル〉だが、マッカーシーの作品はすべて〈ロード・ノヴェル〉といってよく、本作だけが特異な存在なのではない。『血と暴力の国』の訳者あとがきにも書いたとおり、マッカーシーの作品には「人は誰でも生まれたときから一本の線を描いて生きていく」という見方がしばしば現われる。[中略] すべては偶然なのか、神のはからいなのか、それはわからないが、いずれにせよ人は本質的に「闇」であるこの世界を「烏の飛び方で」[ayh1r0註:as the crow flies 「直線距離で」]ではなく、あくまで一本の線である「道」をたどって歩いていくしかない。『ザ・ロード』というのはマッカーシーの全作品のタイトルだといってもいいすぎではないように思う。

まさにこの見方はこの映画にも如実に現われていました。終盤、カウンセラーが麻薬カルテルの男と電話で会話するシーン。カルテルの男が、「あんたは引き返せない」とか、「選択はすでに行われている」といったことを話します(セリフはうろ覚えですが……)。これは、カウンセラーという男のこれまで歩んできた、そしてこれから歩む「道」のことを言っているのです。カウンセラーは何とかして失ったものを取り戻したいと思っている。今まで歩いていた、平和で幸せな「道」に戻りたいと思っている。しかし、それは既に無理になっているのです。なぜなら、彼がそれと知らずにその「道」を選んだのだから。人間は誰でもその道を歩いていくしかない。
こういった思想が随所に現れる辺り、コーマック・マッカーシーの脚本を感じますね。

「麻薬」、「メキシコ」、「人生の転落」といった要素は、既に映画『ノーカントリー』でも扱われています。そういった点では目新しくないように見えます。あるいは、強引な言い方をすれば、”焼き直し”ともとれなくもないです。
しかし、この映画では、これまでにはなかったあるテーマが特にキーとなっています。それは、「欲望」(Greed)欲望こそが、ある人間を、それまで歩んでいた道から、別の道へと引きずり込む力。その思想が本作の下に存在しているようです。
ところで、『ノーカントリー』/『血と暴力の国』に登場する「悪」は、先ほどの黒原氏いわく、「世界の闇」です。詳しい解説はまた別の機会に書きたいと思いますが、これらの作品での「悪」とは、人の力ではどうすることもできない「悪」です。具体的に言うと、自分が過去に何かをしたわけではなくても、容赦なくこちらに害を及ぼしてくる「悪」です。そういった不条理な存在です。
対して、『悪の法則』ではどうでしょうか? 「因果応報」が描かれていますね。カウンセラーはあくまで、もし欲望に誘惑されて別の道に足を踏み入れなければ、さまざまな悪事に巻き込まれることはなかった人間です。しかし、その道を歩みだした時点で、もうカウンセラー達の首に「ボリート」は仕掛けられていました。そして、それを巻いたのは、マルキナという「欲望」。しかし、誰もそのことに気付いてはいない。気付いた時点でもう遅い。
今作では、「欲望」という、「世界の闇」ほど不条理ではない、しかし身近な「悪」が、人を破滅へと導いているのが分かります。不条理ではないので理解はできますが、しかしその「悪の法則」を受け入れられるかどうかは別の話。

本作は、私達が生きている世界に対する、コーマック・マッカーシーの問題意識をよく見ることができる映画でした。そういう点では私は満足ですが、やはり要素を取り出すと目新しさは無いかもしれませんね。『血と暴力の国』/『ノーカントリー』という大きな前例があるので。
でもリドリー・スコットの演出で楽しむことができたので良かったです。特にBGMが良いですね。随所でかかるメキシコのマリアッチ風の曲。ウェストリーが首はねされる直前のシーンの緊迫感ある音楽。ライナーが自分の居場所で流したがる大音量のダンスミュージック。
マッカーシー作品を知らない人には理解しづらい映画なんじゃないかとも思いますが、全体として安定した面白さでした。あと、まだ上記の映画/小説を観たこと/読んだことない人は、そちらもいつか鑑賞しておくのをおススメしておきます。この映画で興味を持ったなら特に。

雑感

  • 首はね
    初めてこの映画のことを知ったのが、YouTubeで見た広告です(動画の再生前に出てくるアレ。普通は5秒経つやいなや飛ばしてますが、映画の予告編は見ちゃいます)。テキサス/メキシコの国境付近を疾走するバイク。その前方で、道路にワイヤーを張る男の姿。バイクが近づいてきたとき、男はリモコンで道路脇の車のライトを点灯させる。思わずそちらに目をとられるバイカー。しかしそのせいでワイヤーを見逃し……。この映画が気になったのは、この一連の映像にシビれたからでもあります。
    それにしても、「ボリート」といい、このワイヤーといい、やたら首はね(beheading)が出てきましたね。ライナーのボリートの話は、私はむしろただの象徴・比喩の話だけだろうと思ってました。でも、まさか白昼のロンドンでほんとにこれが使われるとは。現実にある装置なのかどうか、ほんの軽くネット調べてみましたが、この映画のことしか出てきませんでした。でもありえそうですね、この暗殺道具。陰惨な発明です。
  • 「既に選択している」
    前述した通り、カウンセラーがカルテルの男と通話するシーンで、男が「もう選択は行われている」というような話をしてましたが、そのとき私の脳裏に浮かんだのが、やはり『血と暴力の国』/『ノーカントリー』でした。『血と暴力の国』(扶桑社ミステリー版)の72ページ以降にこんな場面があります。

     シュガーはポケットから二十五セント硬貨を出して頭上の蛍光灯の青みがかった光の中へくるくる回転させながら弾きあげた。それを受けとめて腕の血のにじんだ布を巻いた部分のすぐ上に叩きつけた。裏か表か、シュガーは言った。
     裏か表か?
     そうだ。
     こりゃなんです?
     いいからどっちだ。
     何を賭けるのかわからないとねえ。
     それがわかったらどうだというんだ?
     店主は初めてシュガーの眼を見た。ラピスラズリのように青かった。光っていると同時に完全に不透明だ。濡れた石のように。さあどっちか言え、とシュガーは言った。おれが代わりに言うわけにはいかないからな。それじゃフェアじゃない。正しいことでもない。さあどっちだ。
     あたしゃ何も賭けちゃいないですよ。
     いや賭けたんだ。おまえは生まれたときから賭けつづけてきたんだ。自分で知らなかっただけだ。

    つまり、私達の人生とはずっとコイントスの連続なのだという思想をシガーは言っています。面白いのは、「選択」ではないというところです。選択は私達の意志に基づいて行われます(実のところ私はそれを疑ってますが、その話はまたいつか)。これに対して、賭けは意志とは関係ありません。つまり、自分の人生なのに自分の意志で進んではいないのだということが言われています。
    映画の方ではあくまで選択と言っています。でも、やはりこれも自分がそれと気づいていないものです。この場合は、たとえ何かが起きたときに原因を他に求めたくても、それは自分自身なのだということになります。コイントスの場合だったら、原因なんてそもそもありません。運だけです。

  • エル・パソ
    冒頭も冒頭、バイクの運び屋が道路を疾走するシーンで、標識に「エル・パソ」の文字がありました。この街もコーマック・マッカーシーの(最近の)作品と縁が切れないようです。
    小説『血と暴力の国』/映画『ノーカントリー』では、物語後半、主人公モスの妻カーラ・ジーンが逃亡する先としてエル・パソが登場します。(そしてあることを別の主人公ベルから聞かされる町でもあります。)
    また、マッカーシーは、小説『ザ・ロード』を書いたきっかけをこう話しているそうです。彼はエル・パソのホテルで彼の幼い息子と泊まり、深夜息子が寝た後に外を眺めて、列車の汽笛を聞きながら、五十年後、百年後にこの町はどんな風になっているだろうかと考えたそうです。そのとき山の上で大火事が起きている光景が目に浮かび、そして、この作品が出来上がったのだと言います。
    どういうわけかこのテキサスの街は、作家としてのマッカーシーに何か刺激を与えているようですね。
    [2014/1/1追記:縁が切れないどころじゃありませんでした。海外の解説によると、マッカーシーは1976年以降、エル・パソに在住のようです。そりゃテキサスが舞台の作品も書くようになりますって。]
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