In Custody (1/2ページ)

09.11.37 11:24 AM
Interrogation Room 1

―今の気分は。

 悪くはない。むしろ、快い気分かもしれない。眠たいと感じていてもずっと寝られないでいると、ある時から急に目が冴えてしまうことがあるだろう。今はそういう感じだ。

―これから、君には残りの全てを話してもらう。予備的な質問のためにもう一日費やすことになるだろうが、今はこれまで通り、時系列に従って正確に記憶を引き出してほしい。

 暴力が伴わない限りは、進んで話そう。

―君が我々に対して正直である限りは、暴力は伴わない。

 そう願いたい。

―では、質問に入ろう。今年の五月から九月までの間、君はどこで何をしていた?

 上海の件より後ということか。その時期はトルコにいた。五月の最初の二日間はアンカラに。その後イスタンブールでホテルを転々としていた。たしか、五件くらいだ。

―何をしていた?

 息を潜めていただけだ。だが観光のようでもあったよ。朝ベランダに出て、モスクのドームの向こうから太陽が昇るのを見るのが好きだった。見るべきところはたくさんあったよ。あと、どこにでも人混みを見つけられたのも良かった。

―当時の君の偽装身分は?

 長期休暇中のITコンサルタント『マーク・ジェンセン』。海外渡航は二十回目で、トルコに来るのは初めてだ。

―トルコを選んだ理由は? 

 まだあの国ではTaINSC(*1)の導入が留保されているだろう。広義のヨーロッパ圏にありながら、中東諸国の猛烈な抗議に配慮して、未だに決断を下せずにいる。その間はあそこは俺にとって住みよい土地であるわけだ。

―その期間、誰かと接触したり、連絡を取り合ったことは?

 八月に入って、接触があった。正確には、八月八日。俺は週に三度、午前中に散歩をしていたんだが、その日は帰りにカフェに寄った。店の奥に座っていると、男が一人、まっすぐこちらに歩いてきて、相席を求めた。

―どんな男だった?

 四十がらみと見た。あるいは五十代。髭を十分に生やしていた。だがトルコ人ではないように見えた。身長は百八十センチほどで、腹の出ているような体格ではなかった。暗いオレンジ色のスーツを着ていて、前のボタンは開けていた。手にはその日の『ザマン』の朝刊を持っていた。もちろん、紙の新聞だ。あんた、紙の新聞なんてもう見たことないんじゃないのか。イスタンブールではまだ紙の新聞も根強く読まれている。男は、俺が観察していた限りでは、一人のようだった。そいつ自身が、店の奥の俺を見て、通りを渡って入ってきたんだ。
 座ってしばらくは新聞を読んでいた。少ししてからカフェオレを注文して、それを一口飲むと、ふいに話しかけてきた。
「イスタンブールはどうですか」
 俺だけに聞こえるような声量で、流暢な英語だった。俺が、こんなに良い街は世界中探しても他にそうそう無い、と答えると、
「そうでしょう」と微笑んだ。そして、
「あなた、もしかしてホテル『シャファーク』にお泊まりの方ですか」と言った。
 俺がそれを認めると、
「私もそこに以前泊まったことがありますよ。五四六号室に去年の七月十六日から泊まったんですが、なかなか良い景色が見えました。ちょうどベランダの正面にモスクの美しい青いドームが見えるんです」
 俺が滞在していたのは五四六号室、今年の七月十六日からだった。彼は同じ調子で、その前に泊まっていたという『ボスポラス』ホテルの部屋番号と滞在期間を言った。やはり俺がその前に泊まっていたホテルだ。俺は舌を巻く思いだった。
 俺がとぼけて「偶然もあるものですね。私もですよ」と答えてやると、
「いえ偶然ではありません」と、男は声を落とした。
 男は自分の名を「エルドラン・ボース」と名乗り、「あなたの力を借りたいのです」と言った。
「仕事の内容次第だな」
 ボースなる男はそれを聞くと、新聞をめくって、ある人物の写っている写真が見えるようにして、こちらに差し出した。何とも古臭いやり取りだが、誰が写っていたかは言わなくても分かると思う。

―ああ。(*2)

 俺は否定的な表情をした、と思う。いろいろな点で言って、無謀で、筋の通らない仕事になりそうだった。まず第一に、あまりに危険すぎる。そいつは世界で最も強力な監視ネットワークを作り上げた人物で、そいつ自身がそのネットワークの庇護下にある。第二に、俺自身は仕事に関して依頼者の目的に興味をもつことは普通ないんだが、今回は依頼者にとっての利益というものも見えてこなかった。つまり、それほどの危険を冒してでもやる価値を、ボースの背後にいる連中は見込んでいるのか疑問だった。
「あなたにとってこの世界はますます生きづらくなっているはずだ」だが、ボースは俺自身の利害から語り始めた。「TaINSCはあなたにとって――我々にとってもだが――厄介かつ致命的なシステム以外の何物でもない。あなたは一人でいくつもの人格を使い分けているが、このシステムがあっては、あなたの最も秘匿にしたい人格といつでも容易に相互参照されうる」
「だからこそ、俺はこの仕事を受けるのを躊躇う」と言うと、
「それは分かります。しかし、何もしないでいても、危険はあなたに及ぶかもしれない」彼は俺をじっと見ていた。「こうやって悠長に過ごしている間にも、包囲網は狭まっているかもしれないのです。まだここトルコにはシステムは導入されていない。しかし、いつEU各国の圧力に屈して導入するとも限らない。三ヶ月前には八か国、先月にはさらに十七か国が、システムに加わった。今や地球全土を覆う網が出来上がろうとしているんです。それは、あなたや我々を捕らえるための網だ。安全な場所は、いずれ無くなると考えた方が良い」
 彼はそこでカフェオレを一口飲んだ。「しかし、あなたはその網の欠陥を指摘することができるかもしれない」
 俺は新聞に載っている写真を見つめた。
「あなたにはこの仕事を取って良い理由があるはずだ」
 確かに、この仕事の結果次第では、俺にも金以外の恩恵があるかもしれないことは分かっていた。また、不安なのは技術的な面だけかもしれないと、思い始めていた。足りない技術はたいてい、金で補えるものだ。そこさえ克服できれば、この仕事はそれほど難しいことではないかもしれない。
 ただ結局その日は、考えさせてくれと男に言って、ボースから電話番号を受け取った。彼は、もし受けてくれるなら手付けに二百万ドル払えると言った。特別な準備が必要なら、三百万ドル以内でその費用を負担してやれるとも言った。返事は七十二時間以内に。

―全体の報酬については?

 三千万ドル。二千万ドル以下なら動かないつもりだったが、俺の過去の仕事のこともいくらか知っているようだった。

―ボースが何者かについては聞かなかったか。

「例のシステムに関して、あなたと利害が一致している人々です」とだけ彼は答えた。素性を悟らせないことについては上手い奴だったな。背後に誰がいるかは俺には知らない。

―それは後で詳しく聞くとしよう。ボースと別れてからはどうした?

 ホテルに戻り、ベッドに横たわって彼の話について考えた。直感は、この仕事はやる価値があると言っていた。ボースが言っていたわけではないが、この業界はこれからの時代では先細りするしかない。俺はこの職業に固執する人間には四種類いると思う。過激派、守銭奴、誰かに脅されている奴、そしてこの職業以外に生き方を知らない奴。俺はそのどれでもない。第二の人生を歩み出すことは常に頭の片隅にあった。まだ足を洗って生活していくには蓄えが不十分だったが、うまくいけば三千万ドルが全てを解決してくれるはずだった。
 安全の面からも、これを最後の仕事にした方が良いと思った。これは今までに受けたどの仕事よりも困難になることは明らかで、その成功で得られる注目もきっと今まで以上であるだろうと思った。それほどの注目を浴びたままこの業界に居続けるのは自殺行為だ。
 もちろん、あのボース達が俺を陥れようとしている可能性は常にあった。だがその時点では判断しかねた。ひとまずは彼らの話を聞いて、少しでも不自然な動きが見えればその報いを彼らに与えて、三千万ドルは悪い夢だったと思って、それからいよいよ姿を消そうと思った。

―そして、ボースに連絡したか。
 
 その前に、TaINSCについて一度詳しく調べた。そしてそれをかいくぐって仕事をこなすための計画を練った。それが十分現実的になった段階で、公衆電話から彼に連絡した。アンバルリ港で一度会い、前金の二百万ドルを振り込む口座を口頭で伝え、日付が変わるまでに送金するように言った。地下鉄を使って帰り、ホテルに戻って確認すると、もう二百万は振り込まれていた。
 
―それから?

 港で会ったときに、手指と顔の整形手術が受けられるように手配させた。フランス人のエドガー・ラフィット(*3)という男がいるんだが、彼の手術を希望した。同時に、俺のパスポートの一つにトルコの入国スタンプを偽造することも頼んだ。全てロンドンに乗り込むための下準備だ。

―手術はいつ、どこで行った?

 ボース達と共同で、イスタンブール市内で手術できる設備と部屋を探した。いろいろ駆けずり回って、レヴェント区の外れに、見捨てられた三階建ての事務所が使えそうだと分かった。エドガーがトルコに着いたのが八月二十二日で、それ以降四週間以上かけて入念に手術をした。

―具体的にどのような手術をした?

 まずは顔だ。TaINSCの柱の一つが、都市のあらゆる監視カメラを使った、人物の顔認証だろう。顔面が三分の一でも映っていれば、半秒と経たずに、九十九パーセント以上の精度で特定できるらしい。エドガーは、その特定の際の目印となるのが、両目の間の距離や、両目と鼻の頭を結ぶ角度、顔の輪郭などといった数十個の特徴だと言っていた。サングラスなどをかけてもさして対策にならないらしい。そういうわけで、顔の様々な場所をいじった。当然だが、眼球と眼窩自体は動かせないから、まぶたの皮膚を厚ぼったくしたりして、目の間の距離が見た目上長くなった。顔の輪郭は多少大柄になった。今あんたが持っている昔の写真と比べたら、結構変わっているだろう。
 次に指紋と掌紋。十の指の指紋と、掌紋を削って、その上に細胞培養で作った、既に死んだ男の指紋と掌紋を貼り付けた。馴染むまでは手が使えない生活だったから、苦労したよ。

―カメラへの対策としてしたことはそれだけか?

 仕上げとして、歩き方も矯正したよ。TaINSCのカメラには、人間の歩き方から個人を特定する機能も備わっているだろう。歩き方は、人が最も偽装しようと思わない特徴だ。顔や服装はいくらでも変えられるが、歩き方の癖まで気を遣う人間はそう多くない。俺も人の特徴を記憶するために、しばしばその歩き方を観察する。歩幅や、頭の揺れ方、腕の張り方。部屋の中を一日に数百回往復して、頭をやや前に出し、足の裏を地面に水平に動かす歩き方が身に染みついた。慣れない歩き方をして靴擦れをするようになったから、靴も変えた。

―準備が終わったのはいつだ?

 九月の二十日頃だった。偽造スタンプを押したパスポートも出来上がっていた。名義は『アレクサンダー・ノーマン』、有給休暇を取得中の多国籍企業の販売員。この人格でロンドンに行くことに決めていた。
 その他、ボースとの連絡にはお互い別の携帯電話を使うこと、必要があれば、向こうが既にロンドンに潜伏させた使い捨ての人員を寄こせることも確認した。
 全てが終わった九月二十三日、ヒースロー空港行きの便に乗った。

―分かった。そろそろ疲れたろう、休憩するか?

 ああ、口を休ませてくれ。

(沈黙)

 ……飛行機に乗っている間、久しぶりに、不安のようなものを感じたよ。

―不安。

 ああ。ばかげた話だが、ロンドンに飛ぶにつれて、怪物の大きく開いた口の中に、自分が知らない間に飛び込んでいるんじゃないかと思った。そういう不安だ。あるいは、燃えさかる松明に向かって飛び込んでいく羽虫のような気分。自分の行く手に何があるかさえ知らない奴。

―後戻りはできなかったろう。

 できるチャンスはもうとうに過ぎ去っていた。気づけば九月二十三日の早朝、ロンドンの上空にいた。

 

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