From Beyond (1/3ページ)

 その男は、道路脇の交通標識が作る日陰の中で、石の上に腰掛けていた。背丈の低い木がまばらに生えている黄土色の荒れ地の中で、そこは唯一の日陰らしい日陰だった。標識には、緑色の地の上に白い文字で、ツーソンまで五十マイルと書かれている。太陽電池式のライトが標識の上部に備え付けられていて、それらが黄昏時のあと残り少ない日光を吸収していた。
 男の視線は、南の地平線にぴったりと据えられていた。そこから見え始めるアスファルト舗装の道路は、男の側へ伸びてまっすぐ北へと続いていた。男は背をかがめ、両肘をそれぞれ膝の上に乗せたまま、ほとんど石像のように同じ姿勢を保っていた。浅黒い肌に黒い髪を持ち、顎髭を生やしていた。シャツのボタンは上三つを外していて、履いているジーンズは砂埃のせいで少し白くなっていた。右足のスニーカーは底が外れかけていた。
 東の方から風が吹いている。道路の上を、砂煙が撫でるように舞って横に通り過ぎて行った。それ以外に何も動かない。男は右手で背中を掻いた後、背後に置いてある、穴が開いた黒のナイロンのナップザックの中から、あちこちに傷やへこみの付いた金属製の水筒を取り出した。中身の水はもうほとんど残っていなかった。彼は口を開けて水筒を逆さにし、最後の一滴を飲み干してからナップザックにしまった。顔をしかめながらまた南の道路を見た。
 地平線の蜃気楼の中に、一台の車が現れた。日産の型落ちした、自律走行型の黒色のワゴン車だった。その後ろにまだ車がついてくるだろうかと男は思ったが、その一台だけだった。男はその車をじっと睨んだ。強い西日のせいで、車内の様子はよく見えない。ワゴンの低い走行音が耳に届くような距離になったところで、男は長い間座っていた石から腰を上げ、ジーンズを手ではたいた。ナップザックを持ち上げ、同じように砂を払うと、それをかついで道路の舗装の側まで歩いてそこに立った。右腕を伸ばし、親指を立てた。
 ワゴンは速度を維持していて、そのまま通り過ぎるかと思われたが、男より二百メートル手前のところでようやくスピードを落とし始めた。運転席の様子が見えるようになった。白人の男性がいた。彼もまた男を見ていた。ワゴン車は男のすぐ近くまで来ても、完全には停止せずにそのまま徐行で進み続けた。男は腕を下ろして、急いで車についていった。後ろの座席には、銀色のシートにくるまれた何かが、複数のバンドでしっかりと固定してあるようだった。車に乗っているのはドライバー一人だけのようだった。
 男が車内の様子を覗いていると、助手席側のウィンドウが開いたので、男は話しかけた。
「ツーソンまで乗せてくれねぇか」男の英語は、スペイン語のアクセントを隠していなかった。
 運転席にいた、濃いブロンド髪を持った男性は、運転を半手動モードにしたハンドルの上に両手をゆったりと乗せて、運転席側のサイドミラーをたっぷり一秒見た後、男に顔を向けた。
「こんな砂漠の真ん中で何をしているんだい」
「ツレに車を下ろされたんだよ」男は眉間に寄せていた皺を深くして言った。「ケンカになったんだ。んで俺は放り出された。もうここで三時間以上は待ってる。なぁ、いいだろ? もう水がねぇんだ」男はナップザックから水筒を取り出すと、その口を開けて逆さにしてみせた。「ほら。じきに日も暮れちまうし、頼むよ」
「そのツレはどんな人だった?」ドライバーはまたサイドミラーをちらりと見てから訊いた。
「は? ツーソンまで運んでくれるって約束した野郎だよ。それを仕事にしてる奴だ。向こうからこっちへ、人を運ぶ。なのに、この辺りまで来たら、急に金をもっとよこせって言いやがったんだ。話が違ぇって言ったらあいつもキレたんだよ。それで俺は有り金全部巻き上げられちまった。なんでこんなこと訊くんだ?」
「いや、気になったからだよ。僕の前に何台の車にヒッチハイクしようとした?」
「え? たしか……、五台だったか。俺がこのアクセントで訊くだけで、どいつもこいつも避けやがる。ただでさえ車通りが少ねぇってのに。ほんとに、頼むよ。もう腹も減って歩けねぇんだ。夜になったらコヨーテに喰われちまう」
「コヨーテなんていないよ」
「いや、いる。ガラガラヘビもいる。でなきゃサソリだ。頼む、置いてかないでくれよ」
 男はいよいよ切迫した調子で言った。ウィンドウの枠に手を置いた。ドライバーはそれを見ていた。
「金が欲しいんだったら後で払うから、な? 確かに今俺は文無しだ。ツーソンで仕事を見つけて、それからだが、必ず払う。いいだろ?」
「ヒッチハイクなんて危険だよ」ドライバーは静かに言った。
「ここにいる方が危ねぇよ。分かるだろ? なぁ、あんたしかいないんだ……」
 ドライバーの男性は、道路のはるか前方の砂の荒れ地をしばらく見ていた。そして、サイドミラーと、ダッシュボードに映る車後方のモニター映像にそれぞれ視線を向けた。それから、
「ここにいる方が危険、ね」
「ああ」
「金は別にいらないよ。ツーソンまでなら乗せていってやれる」
 男は表情に明るさを取り戻した。
「ほんとかよ。ああ、恩に着るぜ、あんたはヒーローだ――」
「僕はヒーローじゃない」そう言って、ドライバーはまた口元に微笑みを浮かべた。
「いいや、あんたは救い主だ」男も笑った。「助かったよ」
 そして、助手席側のドアのロックが外された。

 その自律走行ワゴン車は、速度自動調整機能の働きによって、制限速度をきっかり守って走り続けていた。今は運転は全自動モードに設定され、ドライバーはハンドルではなく肘かけに腕を置いていた。
 窓の外を、荒れ地に生えるロシアアザミやワイヤーグラスが流れ去っていく。時折オコティロも。はるか東に見える山脈の青さは、早くも夜闇の色と溶け合っていた。
「名前を言ってなかったな」ヒッチハイクの男は口を開いた。「俺はエンリケだ」
「ハンス。ヘンリー・ハンスだ」
 そう言って、ドライバーはエンリケに左手を差し出した。
 エンリケも笑いながら、それを強く握り返した。そして、手を放した。「ところであんた、スペイン語は喋れるか」
「うん、もちろん《シ・コモノ》」
 エンリケは口笛を吹いた。
「助かるぜ。英語は疲れる」
「こなれてると思ったけどね」ハンスは道路の前方を見ながら言った。「いつから勉強してたんだい?」
「小さい頃、俺のおふくろはアメリカ人向けに豆料理の屋台をやってた。それを手伝ってるうちに、な」
「出身はノガレスかい?」
「ああ。生まれも育ちも」
「なるほど」それを聞いてハンスは頷いた。「あそこは観光業が盛んだね」
「浮き沈みも激しいがな。ちょっとでも客に飽きられれば、金なんて入ってこねぇ」エンリケは窓枠に肘を置き、その手を髪に当てながら言った。「同じようなことやってる奴らなんて腐るほどいる。そんでみんな同じように儲からねぇ。所詮あの街じゃ、まともに飯なんて食っていけねぇよ」
「だから、アメリカに?」
 エンリケは無言で頷いた。
「向こうでは、何の仕事をしていたんだい?」
「運び屋の下請けで働いてた。何でも運んださ、中身を知らないような物も」彼は小さく何度も頷きながら、「少し前までは、隣の州の工場で働いてたんだがな」
「何の工場?」
「鉄の塊を加工する所だ。棒材とか鋼線を作る。出荷先のほとんどが、オートマトンの小型部品工場だった」
 ハンスは眉をわずかに上げてみせた。「へぇ?」
「その工場がネジとかスプリングを切り出して、それを今度はアメリカ南部のパーツ工場に運んでんだ」
「凄いじゃないか。現代の一大産業の根本を担ってたわけだ」
 エンリケは窓の外を見ながら、首を振った。「俺はそんなこと知らねぇけどな。働けるんなら何でも良かった。俺達が作ってた物が最後に何に使われようが、大して興味なかった」
「オートマトンを見たことはないのかい? 実際に動いているところを」ハンスは彼に訊いた。
「あるよ」エンリケは答えた。「街でな、金持ちのアメリカ人が持ってた奴を見たことがある。人だかりができたほどだったぜ。二体いたんだ。確かにな、度肝を抜かれたもんだぜ。どっちも、顔はマジで生きてる人間みたいで、髪も生えてて、服も着てた。ただ、そのうち一体の腕と脚は、黒色の骨格がむき出しだったんだ、皮膚パーツを付けてなくて。もう一体の方がすごかったな。もう人間にしか見えねぇんだ。全身に肌があった」エンリケは手振りを交えながら言った。
「それ、オートマトンじゃなくて、サイボーグ手術を受けた人間だったんじゃない? 使ってる技術は似たようなものだよ」
「いや、ありゃあ確かにマトンだった。首筋の左に、会社のロゴと番号が刻んであったんだ」
「そうかい」ハンスは頷いてから、「まあ、副現実があれば簡単に見分けられるんだけどね」と付け加えた。
「何だ、それ?」
「情報技術によって拡大された、人間の現実感のことだよ」彼は平坦な口調で教えた。「たとえば、コンタクトレンズ型のデバイスが一番ポピュラーだ。付けて見ると、現実の視界には無い文字や映像が見えるようになるんだよ。それが副現実の情報だ。大都市ではそんな光景が一般的さ」
「それ……、金持ちが持ってるものか?」
「いや、これは低所得者層にも一部で浸透し始めてるよ。手軽になってきているからね。近年は価格競争が起きている。君は目にしたことが無いかもしれないが」
「無いな。ということは俺は、自分の目で見分けるしかないだろうな」
「そうだろうね」
「確かに、首筋を隠してたら、もう言われなきゃマトンだってきっと気づかねぇだろうな。ほんと、生きてる人間まんまだったよ。世間話もしてたし、冗談も言ってた。荷物持ちも買い物もやってた。機械とは知ってるけど、すげぇよな。もしかしたら、あの世から人の魂を借りてきてそれに入れてるのかもな」
 ハンスは笑った。「面白いね。ところで……、どうして工場を辞めちゃったんだい?」
 エンリケは渋い顔をした。「辞めたんじゃねぇ。工場が潰れたんだ。他の工場との競争に負けて。マトンの価格を下げる流れがあって、そのしわ寄せが末端まで来たんだ。鉄とかの原価も上がってきてたしな。そんで、行く当てが無くなったから俺はノガレスに戻ってきたんだ」
「苦労しているね」同情を込めた頷きをハンスは見せた。「アメリカに当てはあるのかい?」
 エンリケは鼻で笑った。「あるわけねぇだろ。でもあのままメキシコにいたら食っていけない。だったら稼ぎが良い所で探すのは自然だろ」
 しばらくの沈黙があった。太陽は既に西の山脈の陰に隠れていて、彼らの走る後方から暗闇が迫っていた。ワゴンのヘッドライトはひとりでに点いていた。
「俺と同じような奴なんて、掃いて捨てるほどいるさ」
 ぽつりとエンリケが呟いた。
「そりゃあそうだろうね。メキシコからの入国者は増加するばかりだ、合法非合法を問わず」
「おい……、俺はしっかり国境の検問を通って来たぞ」エンリケは座席に座りなおそうとした。
 ハンスは少し笑った。「気にしないで。僕は別に移民のことを悪く思ってないから」
「本当かよ」彼は目を細めた。「とにかく、俺が頼んだ男は、俺からなけなしの二千ドルをくすねていった詐欺野郎だったが、国境のこっち側まで連れてきてくれたのは確かだ」
「ちなみにそれ、どうやったんだい?」
 エンリケは口を開きかけ、言葉を探しあぐねているかのようにしばらく何も言わなかった。「俺も詳しく教えてくれなかったんだ。ただ、首筋に何か注射されたんだ、前の晩に。ヤクか何かと思ったよ」
「へぇ」ハンスは口元に笑みを浮かべながら聴いていた。
「でもよ、それで普通にゲートを通れたんだ。警官に呼び止められもしなかった。だから、俺にはよく分からねぇんだ」
「いいんだ。別に」彼はただ頷いていた。「でも、ソノラ砂漠やバボキバリ山から国境を越えようとは思わなかったんだね」と言った。
「思わねぇよ」エンリケは首を振って、強く否定した。「俺は砂漠越えも山越えも河越えも全くごめんだった。ああいうルートで無事に国境を超えられた奴なんて何人いるんだって話だ」
 そして、しばらく黙っていたかと思うと、肘かけを掴んで、半ば興奮気味にハンスの方へ身を乗り出した。

 

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