軌跡 4章 (2/2ページ)

 

 次に目を覚ました時、彼は白い漆喰塗りの天井の下にいた。背中の下には硬いマットレスがあるのを感じた。鼻腔の中は何かの薬品の匂いで満たされていた。
 顔を左に向けようとすると、頭に冷たく湿ったタオルが巻かれているのが分かった。ベッドの側には、黄色みがかった綿の前掛けを着た、痩せた女が立っていた。
「気分はどう?」
 女は訊いた。少年はもう少し身体を起こして、部屋をぐるりと見回した。ベッドの隣に鉄製のテーブル、反対の壁の窓の側に机と椅子、その右に畳まれたついたて。部屋の隅には小さなタンスが置かれている。それ以外には、何も無かった。
「僕の武器は?」少年の喉はまだかすれた声を出した。
「自警団の人達のところに預けられているわ。ここにあると危ないから」
「あれは僕の持ち物だ」
 女は頷いた。「そうだけど、そんなものを持ち歩いてたら、周りの人が怖がるでしょう」
「ここの人は誰も持っていないのか? どうやって身を守るんだ?」
「武器はその自警団が持ってるだけ。その人達が他の皆を守るの。そうやってこの街では役割を分けてる」
 少年はふと首元を触ったがそこには何も無かった。束の間部屋の中に目を走らせたが、笛は鉄のテーブルの上に置かれたコップの裏に隠れていただけだった。少年は力を抜いて、枕の上に頭を下ろした。
「まだ安静にしていて。ひどい脱水症状を起こしかけてたから。ここなら元気になるまでずっといて良いことになってる」
「一つ訊いていいか?」
「何?」
「その笛のことだけど」少年は手で指し示した。「僕はこの笛の持ち主を捜してる。この街で見かけたことはないか?」
 女は首を振った。「ごめんなさい、私には分からない。手がかりがそれしか無かったら、見つけるのは難しいと思う」
 少年は天井を見つめて、「ああ」と言った。

 その夜はその部屋の中で過ごした。夕食として、焼いたパンとハトの肉、ジャガイモの入った薄いスープ、そして名前の知らない葉野菜が出た。少年は十分も経たないうちにそれらの皿を空にした。
 翌朝は陽の光が窓から差し込む頃に目を覚ました。開け放たれた窓の外からは、鳥の鳴き声や人の声、扉を開閉する音が聞こえてきた。時折、低く唸るような振動音が外を行き交うのが聞こえた。食事の後、ベッドから足を下ろそうとすると、前日の女が不安げな顔でその様子を見ていたが、彼はいつものように立ち上がって歩くことができた。
 少年の数少ない荷物はタンスの中に入れられていて、彼はそれを全て取り出した。部屋から出ると、そこは木張りの床を持つ通路だった。廊下の片側には今少年が出てきたドアと同じ形のものが並んでいた。開けっ放しのドアの前を通ると、少年がいた部屋と似た内装が見えた。そこは建物の二階で、少年は女に連れられて階段を下りた。玄関らしき広間があり、ガラス戸の手前に立っている白衣を着た壮年の男が少年を見つけると、笑みを顔に浮かべた。
「気分はどうかな」
「おかげで助かった」少年は言った。
「快復が早くて何よりだ。さて、これからどこへ行くつもりだった?」
「街を歩いて回りたい」
「その前に、この街の代表が会いに行かないといけないな」
 少年は男を見つめた。「どうして?」
「この街に来た人は皆彼に会うことになっているんだ。そういう決まりだ」
「会わなかったら?」
 男は小さく首を振った。「私は知らないが、何か面倒なことになるんじゃないかな。会いに行った方が良いと思うよ」
 少年は女と男の顔を交互に見て、それからガラス戸の外を見た。

 その街は、彼が今までに見た中で最も多くの人間が集まっている空間だった。それまで少年は、互いに奪い合いを始めずに協力し続けられる集団の大きさは、せいぜい三十人が限界だろうと思っていたが、街はその何倍もの人間達が一定の秩序を守っていた。
 表通りには朝から人間達が出歩いていた。何も持たずに歩いている者もいれば、荷車を引く者、さらには黒い煙を後ろから吹かす自動車を運転する者もいた。少年はその物体が目の前を通り過ぎていく様を、立ち止まってじっと見ていた。道に面したいくつかの建物は、外の人を招き入れるように扉を開け放ち、中から果物や野菜を詰め込んだ箱を持ち出して並べ、人々はその周りに少しずつ集まって、硬貨のようなものとそれを交換していた。
 少年の姿を見つけると、人々はそれまでしていた作業の手や会話を止めて、視線を投げかけた。少年もそれに気付いていたが、誰も少年と話そうとはしないのでそのまま歩き続けた。大人達はいくらか控えめに見つめてきただけだったが、路傍に腰を下ろしている子供達の瞳はさらにあからさまだった。少年は何も言わずにそれを受け止めた。
 代表なる人間のいる建物は、元は大量の書物を保管しておくための建物らしかった。時の経過を経てくすんだ大理石の外壁が日に照らされて鈍く光っていた。建物の玄関の前には、男が二人立っていて、少年の格好を無遠慮に検めた。
「新しく街に来た人間か」
 片方の男が訊いた。どう答えるべきか分からず、少年は黙っていた。
「代表に会いに来たんだろう。連絡は入っている」
 男は建物の内側へ顎をしゃくった。「中に入れ」
 扉をくぐると、ひんやりとした空気が足元近くを流れているのを感じた。そこは三階までが吹き抜けになっている大きなホールで、天窓から陽光を入れていても薄暗く、ろうそくが至るところで灯っていた。男の一人に連れられて彼は三階へ上がり、緑色の硬い絨毯が敷かれた廊下に入った。一つ角を曲がり、廊下の中央にある扉の前で男は立ち止まると、男は少年に中へ入るよう促した。少年は少しためらったが、やがて扉のノブを握るとそれを開いた。
 そこは書斎だった。大きな窓の前の胡桃材の机に、一人の男性が座っていた。少年が部屋に入ると顔を上げて立ち上がった。濃いオリーブ色の上着とズボンを着ていて、服のどこにも染みや穴やほつれは見られなかった。すらりと背が高く、額には幾筋もの皺が刻まれていた。割れていない銀縁眼鏡をかけていて、その向こうの瞳は少年をじっと観察していた。
「街へようこそ、旅人さん」代表は落ち着いた様子で言った。「さあどうぞ、椅子にかけて」
 少年は、机に面して置かれているクッション付きの椅子を見た。
「椅子はいい」少年は答えた。「何の用なんだ?」
 代表は片眉を吊り上げて少年を見た。
「外から来た人間には、この街のことについて知ってもらわないといけないからね。その話をしたいだけだ。本当に椅子は良いか? 私は座らせてもらうが」
 彼は再び机の奥の、高い背もたれを持つ椅子に腰かけた。磨き上げられたガラス製のグラスから飲み物を少し飲んだ。
「君がどれくらいの期間旅をしてきて、いくつの共同体を目にしてきたかは知らないが、おそらくこの街はその中で最も平和な部類に入るだろう。大交錯の後の混乱を経て、ここは一定の秩序を作り上げ、保持することに成功した。君も想像しているかもしれないが、この街の人間の出自はそれぞれバラバラだ。全員この時代のこの土地の出身というわけではない。この街は、別々の時間からさまよい出た人々が集って作り上げた、コミュニティなのだ」
 代表はそこで間を置き、少年が話についてきているか見た。
「ここはコミュニティによって統治されている。私はその代表を務めている。私の方針は、ここでは住民の過去については何も問わない、ということだ。なぜか分かるかな? 大交錯の前、かつて社会というものが世界中で機能していた頃、ある個人を規定する分類は様々にあった。どこの国で生まれたか、どの街で生まれたか。どの人種の、どの民族の、どの家に生まれたか。だが、あの境界線が私達の世界を分断した時、そのカテゴリーも個人から引き剥がされた。私達が一つ境界線を越えれば、その先にいるのは全く見知らぬ過去を持つ人間だ。それは、相手にとってもそうだ。今に生きる人間は皆、自分自身の時代、自分自身の社会という大きな船から投げ落とされた漂流者なのだ」
 代表の男は背中を深く椅子に預けた。それから窓の方へ顔を向けた。
「ここにいるのは、過去から切り離された者同士だ。ここでは過去にあった分類は意味をなさず、それゆえに誰もが一からやり直せる。今も生成しつつあり、変化し続ける新しい社会に参加できる」それから少年に向かって微笑みかけた。「君もそれに参加してくれるということだな」
 少年は眉をひそめた。
「どうして?」
 代表の笑顔は少し強張った。「この街に入るということは、コミュニティの一員になるということだ。君は私達の仲間になりたいと言ったんだろう? ならそういうつもりじゃないのかね」
「ここにはそれ以外の人間はいちゃいけないのか?」
「当たり前だ。壁の向こうにいる人間達は、私達と価値観を異にする奴らだ。社会のあり方について同意できない者同士では、共同体は成立しえない。それぐらい分かるだろう」
「もし僕がそれに参加しないなら?」
「今すぐ君を追放するだろう」間を置かずに代表が答えた。
 部屋の中に沈黙が下りた。外の廊下で遠く足音が響いてきたが、すぐに聞こえなくなった。代表は少年が何を言うか待っているようだった。
「なら、先に僕の荷物を返してくれないと困るな」
「何?」
「僕の荷物だ。この街に来る前に差し出した猟銃とナイフ」
 代表は何かを思い出すように宙を見てから、「ああ、あれならもうこの街の自警団のものだ。自警団のものは一般人には渡さない決まりになっている。君が出ていくとしても君に渡すことはできない」
 少年は首を振った。「それはおかしい」
「この街から追放される人間は滅多にいないが、そういう輩がいるとしたらそいつが重大な犯罪者だ。そんな人間に武器を持たせられるか? この街に危害を加えに戻らない保証は無いだろう」
「僕は何も罪を犯していない」
「確かにそうだ。これからもそうならないことを願っているよ」
 代表は再びグラスから飲んだ。
「だいたい君にとっては、この街から出たところでまた君は元の飢餓に戻るだけだろう。なぜそこまでして旅を続けたい?」
 少年の右手は首元に上っていた。「僕が人を捜しているからだ」
「誰だ?」
「この笛の持ち主だ」
 少年は笛を見せた。代表は目を細めてそれを凝視していたが、やがて首を振った。「それしか手がかりは無いのかね」
「ああ」
 代表は吹き出した。「君が行き倒れになる前にこの街を見つけられて、本当に良かったと思うよ。どうだ、この街にその人物はいそうかね」
 少年は肩をすくめてみせた。「まだここに来たばかりだから」
「そういうことなら、今後はこの街で暮らしながら捜した方が良いだろうな。どうせ見つかる当てが無いなら、飢えから逃れられる方が良いだろう。大丈夫だ。すぐにこの街に馴染むようになる。そうすれば、ここを出たいなんて途方もない考えも忘れるだろう」
 代表は机の上の置時計に目をやった。きちんと動いている時計を少年が見るのは久しぶりだった。
「すまない、私はもうすぐ用事がある。君が早くこの街の一員になってくれることを祈っているよ」
 少年の背後で扉が開き、先ほどの男が彼に手招きした。少年はまた振り向いて代表の方を見、それから何も言わずに部屋を後にした。
 
 建物から出ると、少年は通りの左右を見渡した。反対側の歩道に、茶色の紙袋と大きな水筒を抱えた女がいた。少年が目覚めた時に介抱した女だった。
 少年は自動車を避けながら通りを横切り、女に追いついて話しかけた。
「ちょっと、良いかな」
 女は振り向くと、戸惑った様子で少年の顔をじろじろと見て、それから全身に視線を走らせた。
「あなたは?」
「忘れたのか。今朝まで僕を介抱してくれただろう」
 女はしばらく眉をひそめ、それから合点がいったというように頷いた。「ああ、きっと病院で働いている方の私のことね」
 少年は少し目を見開いた。「もしかして、君は別の世界での彼女か」
「ええ、そう。二人とも偶然この街に暮らしててね。最初会った時は生き別れの双子かと思ったもの。もう一人は病院にいて、私は薬屋で働いてる」
 あらゆる意味で全く同じ人間に遭遇したことは、これまでも何度かあった。最近で少年が覚えているのは、ある山の中で暮らしていた、別々の時代からやってきた、兄と弟ほどに年の離れた同じ男だった。
「それで、もう一人の私に用があった? それとも私の方?」
「ああ、そうだった」少年は本題を思い出した。「この街の自警団は、どこに行けば会える?」

 

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