軌跡 4章 (1/2ページ)

 

 その谷の両側にある岩壁は、月の表面のように寒々しい色をしていた。少年は谷の端にある小山の上に立ち、そこから前方を眺めた。谷は細長く、そして隙間なく黒い森で覆われていて、さながら巨大な蛇の死骸のように見えた。少年は小山を下りると、その腹腔の中に分け入った。
 地面に落ちている枝はどれも少年の小指より細かった。後で少年はそれらを拾い集めて薪にしようとしたが、どれもあまり燃えなかった。
 その晩は、昼間に獲ったコウモリ二匹を焼いて食べた。それは生きていた時は昆虫を食していたコウモリで、食べられる部分は少なく、苦みをこらえながらその肉を食べた。焚き火は少年が消すよりも前にくすぶり、やがて髪の毛のほどのか細さになって、闇の中で音も無く消えた。
 
 まだ月が谷の真上の空にかかっている頃、少年の意識は何かの物音によって眠りから覚めた。
 薄暗闇の中、焚き火の跡の周囲で三つの物体がうごめいているのが分かった。地面にしゃがみこみ、少年の大きなバッグを開けて中に手を突っ込んでいた。動物ではなく人間の男達だった。ぼさぼさの髪を揺らし、灰色に汚れたシャツやつなぎを身にまとっていた。
 少年は老人の教えに従って、普段から寝る時は地面に横にならず、背中を木や岩に預けていたが、それはちょうどこのようなことに遭遇した時のためだった。必要最小限の荷物を詰め込んだナップザックは、背中の後ろに置いていた。
 彼は、右脚にぴったりと沿わせて置いていた猟銃を右手に取った。それとほとんど同時に、略奪者の一人が、少年が目を覚ましたことに気付いた。口が開き、茶色い歯の列が覗いた。
 少年は素早く左手で銃身を支え持って狙いを付けると、引き金を引いた。銃火が暗闇をぱっと照らし出し、それが消えた直後略奪者のうちの一人が片腕を抑えて地面に倒れ込んだ。
 次の狙いを付けようとする前に、別の男がこちらに向かって勢いよく腕を振りかぶっていた。少年は上半身を左側に倒し、そのまま土の上を転がった。少年の頭があったところにぶつかったのは、人の拳よりも大きい石だった。
 少年は跳ね起きると片膝をついて、再び銃を構えようとした。三人の略奪者は既に焚き火の跡から離れていて、一人は少年のバッグを背負っていた。別の男は手に黒い小さな金属の物体を持ち、それを少年の顔に向けると、細く鋭い緑の光線が少年の右の目元を射た。途端に少年の視界が暗黒に包まれた。思わず強く目をつぶり、片手を銃から離して目を擦ってしまった。足音が遠ざかっていく。視界はすぐには回復しなかったが、立ち上がってふらつきながら走りだした。少年には彼らの道具の見当は付かなかったが、何であれ少年にとって未来の世界の道具だろうと思った。
 略奪者達はばらばらに別れ、下り坂を走って逃げていた。少年は、バッグを背負って動きの鈍くなっている男を銃で狙おうとしたが、男は木々の間をじぐざぐに動き、巧みに射線をかわしていた。少年は坂道の途中に突き出ている平たい岩を見つけると、その上に躍り出て、遮るものが何も無い場所からその男に銃を向けた。少年の注意は、その男のバッグの上に見える首筋に集中していた。不意にその男の斜め後ろから別の男が飛び出した。前の男は背中のバッグを肩から外し、後ろの男はそれを受け取って素早く背負うと、前の男を追い抜かす勢いで走り始めた。少年は銃を下ろして岩から飛び降り、再び駆け出した。
 略奪者達は森を抜け、代わる代わる少年のバッグを受け渡して走り続けた。少年は平原の真ん中でもう一度猟銃の照準を定めようとした。既に男達は、照星の上に乗る小さな虫ほどの大きさになっていた。散弾が届く距離はもう越えていた。
 少年は銃を下ろし、男達の姿が遠くの丘の稜線の向こう側へ消えるまでそれを見ていた。今まで走ってきた方を振り返り、それからもう一度前を向いた。今から彼らのいる所へ辿り着いたとしても、その頃にはバッグの中身はほとんど消費されて無くなっているだろうと思った。それに、あの三人以外にも人間がいないとも限らない。焚き火の側に残してきたナップザックが少年の残りの荷物の全てだった。
 彼は呼吸が落ち着くまでその場に立ち尽くし、踵を返して月明かりを頼りに森へと戻り始めた。首元に下げてある笛をもう一度触った。それを何とはなしに手で触りながら、もしこれを首に下げずにあのバッグの中にしまっていたとしたら、果たして自分は引き返さずに後を追い続ける気になっただろうかと考えた。

 翌朝、少年はナップザックと銃だけを担いで、蛇のような森の端に立った。目の前に砂に覆われた大地が見える。普通では考えられないくらいに森に砂が迫っていたが、それもまた大交錯が気まぐれにここにその世界を持ってきたのだと思うしかなかった。
 少年は手の平を両目の上にかざし、大地を見渡した。どれくらいの広さがあるのか想像もつかない砂漠。樹木は点々とでたらめに生えていて、空と地平線の間は舞い上がった砂煙によって区別が曖昧になっていた。どこかに動物や人間の足跡が無いか探したが、仮にあったとしてもそれはもう風に運ばれた砂によって覆い隠されていた。彼はいくらか遠慮がちに足を踏み出した。
 ナップザックに入っているのは包帯と消毒用のエタノールの瓶、猟銃の実包が三つ、缶詰が二つ、方位磁針、マッチ棒四本、ガムテープ、水筒。彼はもし自分が幸運ならこれであと五日間は生き延びられるだろうと踏んでいたが、あれだけの荷物が奪われた後でそう信じる気は起きなかった。目に付く樹木はいずれも背が低く、枝ぶりもひ弱だった。歩きながら地形を確かめて、どこかに川が無いかと探してみたが、干上がった川の跡が見つかるだけだった。
 夜は低木の下で焚き火をした。どこか遠くで動物の遠吠えが聞こえてきた。彼が今までに聞いたことの無い声。確かめる術は無いが、少年にはそれが同じ一匹のもののように感じられた。それは少年が火を消すまで何度も何度も暗闇に何かを呼ばわり続けていた。他にそれに応える声は無かった。
 翌朝彼は西に向かって歩を進めた。足元は柔らかい砂から次第に赤土へと変化していった。いつまで経っても境界線らしきものが見えてこないのは、どの世界のどの時代にあってもこの大地は変わらず死んでいるせいだと少年は思った。曇ってきた空の高い所にカラスの群れが飛び回っていた。夜が来ても何も動物を見つけられず、リンゴの缶詰を半分だけ食べて、蓋をテープできつく閉じた。
 明くる日も彼は空っぽの大地を歩いた。少年の心には、もしかしたらこの先は誰一人として人間が存在していない空間で、自分はそうとも知らずに進み続けているのではないかという疑念が芽生えかけた。自分は正しい場所に向かっているという確信はとっくに無くなっていた。あの略奪者達にバッグと一緒に奪われたかもしれない。それよりもずっと前から無かったかもしれない。
 どこに自分が見つけるべき道しるべがあった? そもそも本当にそんなものはあるのか?
 その後二つの昼と夜が過ぎた。日照りから頭を守るためにタオルを巻いていた。両足は一キロ歩くごとにひどく痛んだ。次第にまとまりを失い始めている意識の中で、彼は誰かが自分を見つけてくれることを期待していた。誰であっても良い。誰か他に人間の姿を見なければ、次に自分がすることを決められないと思った。
 あるいは、彼らはとっくに自分の姿を見つけているのだが、自分が野垂れ死ぬのを待ち続けているのかもしれなかった。
 さらにもう一つ夜が明けた。この荒れ地を渡る前に自分が立てた寿命の見積もりより一日長く生きていたが、もう日暮れまで持ちこたえられるかどうかも分からない。生き物は皆自分が放っている死の匂いに耐えられずに離れていってしまったに違いなかった。前方に白く乾いた倒木が見えた。何も無いところで倒れるよりかは、せめて何かに寄りかかりたいと思った。
 その近くまで来た時、抑揚のない色調だった赤土の上に、色の濃い線のようなものが見えた。倒木を通り過ぎてそれを確かめると、それは轍のようだった。北西と南東の間に走っていた。五センチほど沈みこんだ土の表面にタイル状の模様が残っていた。少年の足が横向きにしてすっぽりと入る太さだった。少年は耳を澄ましたが、どこにもそれらしき音は聞こえない。
 その轍の上にしばらく立ってから、北西に向かって歩き出した。轍は岩や木を丁寧に避けながら続き、川の跡を一つ踏み越え、そこから緩やかに西北西へ曲がり始めていた。少年はなぜ今も自分が歩き続けていられるのか不思議だった。
 二つ目のなだらかな丘を越えた時、平原の中央に突如として建物の集合体が見えた。およそ三キロ四方の土地で、その周りは灰色の高い壁で隙間なく囲まれていた。壁の中に見えるいくつかの煙突からは白い煙が空に立ち昇っていた。気付けば少年の足はそこに向かって歩き出していた。
 
 轍に沿って進み続けると、それが閉ざされた赤褐色の門のところへ続いているのが分かった。少年は近づくにつれて、壁の上に人間が現われるのを目にした。何人かは銃を帯び、何人かは双眼鏡をこちらに向けていた。着ている衣服はばらばらだが、歩哨らしく腕を出したり動きやすいズボンを履いていた。
 少年の足は既に限界を超える痛みを訴えていた。門まであと三百メートルも無いところで、彼の膝はふいに後ろから誰かに蹴られたように折れた。彼はその場に膝をついて動けなくなった。疲労と暑さが彼の意識を支配していた。ここまで来てもこれから何をすれば良いのか全く考えが無かった。
 壁の上の人間達はしばらくこちらを観察していた。手にはそれぞれ弓や銃のような物体を持っているようだった。そのうちの一人が、らっぱのような形をした大きな筒をこちらに向けた。
「何の用だ」
 久しぶりに聞いた人間の声は、警戒心に満ちていた。少年は、自分の喉は今も声を出せるかどうか自信が無かった。
「食べ物が欲しい」
 壁の上の人間に反応は無かった。少年はもっと大きな声でもう一度叫んだ。
 またしばらく沈黙があった。
「俺達の仲間になるなら、ここに入ることができる」声が返ってきた。「この街にいるのは皆仲間だ。お互いを助け合い、信じ合って生きている。お前もそれができるなら、俺達もお前を助けよう」
 少年は固く閉ざされた扉の辺りをぼんやり見ていた。意識はぬかるみの中で動いているように鈍麻し始めていた。
「俺達に敵対するなら、ここへ入ることはできない。帰ることだ」
 それから声は聞こえなくなり、風に吹かれた砂煙が少年の身体を覆った。彼らは少年がどうするか見守っている。少年は肩から吊るしている猟銃を手に持った。それを上に持ち上げてひもから頭を抜くと、銃を下ろした。そして、それを目の前の地面に放り投げた。腰に吊るしているナイフにも手をやると、それも同じようにベルトから外して投げた。
「分かった。仲間にさせてくれ」
 少年は身体を折り曲げるるようにして、もう一度大きな声を出した。壁の上からは反応は無かった。
「お願いだ、僕を助けてくれ」
 少年はその声とともに、肺に残っていた酸素を全て吐き出し尽くしたと思った。胃の中には何も入っていないが唐突に嘔吐感がこみ上げた。少年は両手を熱い砂の上に突いた。しばらくそうしていたが、両腕は次第に彼の身体を支える力を失い、やがて上半身も地面に倒れた。
 少年の耳に入ってくる音は、だんだんと曖昧で不明瞭なものになり、両目は場違いな眠気によって閉じられようとした。彼は努めて起きていようとした。どこかから地面に微かな振動が伝わってくるのを彼は感じたが、そこで彼の意識は途切れた。

 

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