軌跡 3章 (2/2ページ)

 髭面の男は少年から六十メートルほどのところで止まった。少年の猟銃の確実な殺傷距離は五十メートルまでだった。男は両手を空に上げたまま、それ以上動かない。微かに笑っている。
 少年はもう一度辺りを見回した。そして、背負っているバッグをそっと地面に下ろした。次に、右肩にかけている猟銃をそのバッグに立てかけた。男と同じように、少年もベルトを外した。
 両手を上げ、髭面の男に注意を向けながら進んだ。近づくにつれて、その姿の細部に目が行く。日に焼けた肌と、切れ味の悪い刃物で乱雑に刈り上げたような黒髪。元は白色だったであろう土色のシャツ、あちこちに補修の跡が見える濃緑のズボン。武器は全て後ろに置いてきたように見えるが、ズボンの背中側と、裾の内側にも、武器を忍ばせておくことはできる。
 少年と髭面の男は、十メートルの距離を空けていた。二人とも両手は下ろさない。互いに服装と肌の傷を見て、それまでにどんな道を歩いてきたのか推し量ろうとしていた。
「連れはどこにいるんだ?」
 髭面の男が口を開いた。
「連れって?」
「お前と一緒に旅してる奴だよ、坊や。今どこにいるんだ? お前だけはぐれたか?」
「僕に連れはいない」
 髭面の男は目を細めた。「一人で旅してるのか?」その後も彼は少年の姿を、頭から爪先までじろじろと見た。
「何?」
「珍しいからだよ。わざわざ一人で旅をしている奴がいるなんてな。こんな若いのに」
 少年は、男の後ろの方にいる三人の人間に目をやった。おのおの鋼鉄の上に腰かけたり、荷物を下ろしたりして、こちらの様子をじっと見ている。
「なあ、そろそろ腕を下ろそうじゃないか?」
「ゆっくりとだ」
「ああ、ゆっくりと」
 二人とも、互いの腕が下がる様を注視し、手が何にも触れないのを確かめた。
「あんたには連れがいる」少年は言った。
「そうだ。一番古い奴とは、もう数年は一緒にいる。紹介してやろうか?」男は上体だけ後ろに振り返った。「一番奥に立ってる男が、その最古参だ。生まれた年は俺より一年早いだけだが、年齢は俺より五歳上だ。手前に座ってる女は、俺と同い年だが、俺より十年後に生まれた。その横の太っちょは、どこの世界で生まれたかは知らない」彼はまた少年を見た。「『大交錯』が俺達を引き合わせた」
「あんた達は、どこに向かっている?」
 少年は尋ねた。
「どこに? さあな」
「目的地も決めてないのか?」
 男は首の後ろを指でかいた。「強いて言うなら、俺達が安全に暮らせる場所だ。気の合う奴らと一緒に、どこにも行かないで済む所。そんなところがあればの話だが。お前は?」
「何が?」
「坊やの目的地はどこだ?」
 少年は黙っていた。男は身体を揺するように笑った。
「何だ、お前も無いのか? まあそれはそれでいい。俺達に目的地は無いかもしれないが、俺達は助け合って旅をしている」彼は話し始めた。「ここは、バラバラの時間軸が一つの空間で隣り合って同居する世界だ。誰にとっても住み慣れていない。おまけに俺達は、それぞれの元の世界で知ってる人間達とも離れ離れにさせられた。だがな、新しい世界での出会いが無いわけじゃない。分かるな? 元の世界へ帰る術が分からないなら、今出会える人間達と助け合って生きる方が利口だ」
 髭面の男の三人のうち、一番太っている男が、右膝をさすりながら、苦しそうな顔をして軌道の上に腰かけた。
「こんな世界に一人きりでいるのは心許ない。しかし、互いに集まって協力すれば違う。最初は俺も一人で当ても無くさまよってた。昨日まで見慣れた風景が一変して、どこに何があるかも分からなかった。だが、数年前にあの男に出会ってからは、俺も勇気づけられた。何も分からないのは奴も同じだが、自分が一人ではないと知った時、人は心強さを感じられる。お前もそう思うだろう?」
 少年は、しばらく間を置いて、頷いてみせた。
「お前だって最初からずっと一人だったわけじゃないだろう。誰かとはぐれたか、あるいは別れたか。どっちだ?」男は僅かに身を屈めた。少年の目線の高さに合わせようとしているかのように。
「あんたが知る必要は無い」
 髭面の男は鼻で笑った。「そうかい。それはそうだが。今までどうやって生きてきた? 一人で狩りをしているのか」少年が後ろに置いてきた荷物の方を見て言った。
「そうだ」
「だが、一人きりでは苦労するだろう? 獲物を探すのも、追い立てて捕まえ、仕留めるのも、一人では成果を望みにくい。失敗すれば大変だ。坊やもこれまでは上手くいってきただろう。だが、明日もそうとは限らない」
「言いたいことは何だ?」
 男は小さくため息をついた。「坊や、俺達と一緒に行かないか?」
 少年は男の目を見つめた。手は無意識のうちに、首から下げている笛に触れていた。森で拾って以来、ぶら下げたまま一度も吹いたことはない。ただいつも少年の首筋にひやりと触れて、存在を主張し続けている。
「僕は、この笛の持ち主を探している」
「へぇ」
「この笛に見覚えは?」
「どこにでもある笛だ。誰が持っててもおかしくない」
 少年は顔を俯けた。笛を服の内側に戻した。
「探しに行く当てはあるのか?」男が尋ねた。
「無い」
「なぜその人間を探すんだ? お前の知り合いか?」
「いや」
「見ず知らずの人間を探してきたのか? 顔も知らないのか?」
「ああ」
 男は、笑うべきかどうか迷っているような顔だった。
「藁の山から針を捜すよりも無謀だ。なあ、一体何があってそんなことをしてる?」
 少年は答えなかった。髭面の男は一度後ろへ振り向き、それからまた少年を見た。
「分かった、聴いてくれ。お前はその笛の持ち主を探してる。理由は知らないが。だが、一人でやろうとするのは無茶だ。どこにいるか手がかりが無いんだろう。それなら、俺達と一緒に旅しながら探すというのはどうだ? そっちの方がずっと効率的だ。どうだ? お前もそれは分かるだろう?」
 少年にこんな話を持ちかけたのは、この男が初めてではなかった。少年を殺そうとしない人間は、決まって同じことを言った。いつでも少年はその話のことを真剣に考えはした。そして、いつも同じ答えを返してきた。
「一緒には行けない。これは、僕一人の問題なんだ。ついて行くことはできない」
 男の表情は変わらなかった。それから、抑揚を欠いた声色で、
「一つ訊いて良いか。ずっと一人でい続ける意味とは何だ? 複数の人間がいれば分け合える苦労を、なぜ一人で抱え込む?」
 少年は男の影の辺りに視線をやっていた。それから、男の後方を見た。膝をさすっていた男が、他の二人と何かを話、しきりに顔の汗を手で拭いている。
「あの男はどうしたんだ?」
 少年は尋ねた。男は眉間に皺を寄せて、後ろを見た。「あいつは膝を悪くしている。会ってから間もなく、足を滑らせて怪我をした。これまでは何とか俺達についてきたが」
「もし彼が歩けなくなったら?」
「まずは助ける。それでも駄目なら……、置いていく」髭面の男は小さな声で言った。「やるべきことはする。だが、あいつは新入りで、まだ俺達への貢献は少ない。だから、他の三人が奴に返すべき恩も少ない。俺達は互いにそういう関係だ。あいつだって、それを了解している」
 少年はまた三人を見た。もう誰も話をしておらず、ただ男が戻ってくるのを各々待っていた。
「僕は一緒に行けない」彼は繰り返した。「すまないけれど」
 男はまた長い間少年を見ていた。ハエが一匹顔の周りを飛び回り、それを手で払った。
「お前がその道を選ぶんなら、俺は干渉しない。だが、いいか、お前も干渉してくるなよ」
「分かってる」
 男は、ゆっくりと身体の向きを変え、仲間達の元へ歩き出した。少年はその背中を見ていた。武器は隠されていなかった。
 少年は声をかけた。「僕も訊いて良いか? あんたはどうして僕を仲間に誘おうとしたんだ?」
「歩み寄ることもしないで、その人間のことを判断することはできんからな」
 少年はしばらくしてから、自分の荷物のところへ戻った。
 荷物を抱えて軌道を歩き始め、間もなく四人組に近づいた。誰も言葉を発しない。ただ誰もが相手の手の動きに注意を向けている。少年と四人組は十メートルほどの距離を保ちながら、時計回りに動いて軌道上の位置を入れ替えた。
 膝を悪くしている太った男は、髭面の男と少年に交互に視線を向けていた。髭面の男は、最後に少年を一瞥して、小さく首を振ると、仲間に合図して踵を返した。
 少年も彼らに背を向けて歩き出した。彼らが視界から完全に外れるまで、何度も振り返った。

 少年と老人は大きな湖に着いた。その頃は、もう老人は杖無しで歩くこともままならず、二百歩歩くとひどい咳のために立ち止まらなくてはならなかった。湖の臨む高い崖の縁で、少年は老人の肩を半ば抱きかかえていた。彼の背は、老人の身長を既に追い越していた。 
 湖は、薄暗く曇った空よりも黒い色だった。中央辺りの水面に、錆びた金属の物体が突き出ているが、どこかの世界で人間が浮かべていた船の一部のようだった。今は鳥が何羽も止まっている。
 ふいに老人が激しく咳き込み、少年は近くの森の中に連れて休ませることにした。樹の幹に背を預けさせ、水を飲ませた。
「いや、もう要らない。ありがとう」老人は顔の前で手を振ったが、その動作もひどく気だるげだった。間もなくまた長い咳が始まり、手の平に吐瀉物が付いた。額に汗を浮かべ、何度も瞼を閉じた。
「お前を、まともに友達と遊ばせることができなかったのが、心残りだ。あの出来事があって、お前の友達はみんなどこかに行ってしまった」
「おじいさん、そんな話をしないで」少年は何度も老人の背中をさすった。
「いつかはこの日が来ると思っていた。何か心構えすることができたら良かったが、何もできなかった。本当に、心残りだ。お前に……」また咳が出た。「代わりに誰か旅をしてやれる人を見つけられたら良かったが。誰も、いない。誰もかれも、お前のような無垢で若い人間に付け入ろうとする。利用しようとするのだ。誰も、お前を対等に見てやれる人間に、出会えなかった」
「もう喋らないで、おじいさん」いつまで経っても咳が止まらず、少年はどうしたらいいか全く分からなかった。
「いいか、よく聴け。一度しか言わない」ますます小さくなる声で、老人は話した。「人を探すんだ。お前と一緒に旅をしてくれる人を。誰でも良いわけではない。いいかい、お前が最も会いたいと願う人間でなければならない。どこかにきっといる」
「どこかって、どこにいるの」
「それは、これからお前が探すのだ。もうわしにはできない。お前が、自分の足で、自分の目で、確かめることだ」
 老人は顔を俯けた。少年は、彼を正面から抱き締めようとした。老人の体温が失われていくのを止めるには、それしか方法が思い浮かばなかった。
「僕が一番会いたい人は、おじいさん以外にいないよ。おじいさんがいないなら、一人で生きていく方が良い」
 老人は首を振って、微笑を浮かべた。「いつか分かる。お前にもきっと分かる」

 老人は、自分の身体を森の真ん中に置いてもらうことを望んだ。少年は老人のバッグから、持っていくものと置いていくものを選ばなければならなかった。その夜は老人と身を寄せ合って横になった。涙は後から後から際限なく出てきたが、老人はもうそれを止めてくれなかった。
 次の日の朝、出発する前に、少年はもう一度老人の手を握りしめた。額と額を重ねあわせた。その後、それまでよりもかなり重たくなったバッグを背負い、猟銃を肩にかけて、ふらふらと立ち上がった。湖に面する崖の下から、冷たい風が吹き上げてきて、少年の足元を覚束なくさせる。
 彼は、自分がその森からそう遠くまで歩けないだろうと思っていたが、実際はその日のうちに、数十年分以上の空間を踏み越えていた。

 

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