軌跡 3章 (1/2ページ)

 山を下りてすぐのところに、緑のある世界が現れた。春の草木がどうにか生き残っている空間のようだった。少年は既に猟銃を下ろして、足取りを遅くして辺りを見回しながら草を踏んでいった。それまで辿っていた足跡からは、一時的にだがかなり遠く離れている。
 小さな森を一つ抜けたところで、丘がうねるように連なっている場所に出た。少年の腹の高さほどの丈の草が、見渡す限りに広がって茂っていた。柔らかく湿った土の上を歩くと、ところどころに小さな穴が開いているのを足の裏に感じた。
 陽の光に照らされた草の緑色の間に目を凝らしていると、およそ四十メートル離れたところに、草が風に吹かれて倒れる方向とは反対へ動くものを見つけた。

 ウサギを見つける度に、少年はいつも、初めて自分で狩りをした時のことを思い出した。その頃は老人と旅をしていた。普段は少年が獲物を探す目となり、老人がそれを仕留める手となったが、その日は役割を交代しようと、老人は言った。
「お前も、そろそろ自分でやり方を学ばなくてはならない」老人は咳き込みながら言った。「私の真似をすればいいだけだ。生き物の探し方なら、お前はもう心得ている。今度は、お前が動く番だ」
 二人は、草地から頭を伸ばしているウサギを見つけていた。老人は、少年に猟銃を手渡した。気を付けるんだ、と忠告した。銃は少年の身体には少し大きすぎ、撃つためには、二人が背負っていたバッグパックを地面に置いてその上で構えなければならなかった。
「じっと待て」老人は彼の耳元で囁いた。双眼鏡を見ていた。「獲物の動きを想像するんだ。息遣いのタイミングまで分かるように。ゆくゆくは、気持ちまでこっちも分かるようになる」
「本当?」
「ああ、本当だとも」
 少年は言われた通りのことをしようとした。ウサギがこちらの方向へ跳ねてきて、再び首を伸ばしたところで、少年は撃った。
 粉々になった緑の草が空中に舞い、その中にウサギの耳と頭部の一部が混じって飛ぶのが見えた。少年が次に瞬きをする間に、ウサギはもう三十メートルは向こうに走り去っていた。
「逃げられちゃったよ」少年は小さな声で言った。
「いや、まだ間に合う。さあ急ごう」
 老人の言う通り、砂地には血の黒い染みが点々と続いていた。やがて二人は、でこぼこになった地面の大きな窪みの一つの陰で、ゆっくりと進むそれを見つけた。身体は小刻みに痙攣していた。
 少年の目は、そのウサギに釘付けになっていた。「どうするの?」
「いつも私がやってるようにやればいい」彼は、猟銃の銃床を指で叩いた。
 少年は、よたよたした足取りで窪みを下りた。一度老人の顔を見上げ、それから足元に視線を落として、銃床が下に来るように猟銃を持った。しゃがみこむと、唾をごくりと飲んでから、ウサギの頭を狙った。
 その晩、二人は森の中で野宿をした。ウサギのいた緑の草原ではなく、黄色に染まった落ち葉が積もった晩秋の森だった。
「おい、寒くはないかい? もっと火に近寄って」
 少年は狩りを終えて以来、言葉少なだった。老人と目を合わさず、今日自分の手で獲った肉を焼いて食べた。
「何をふさぎこんでいるんだ」老人はまた咳をした。
 少年は、しばらく炎を見つめた後、「ねぇ、僕のお父さんとお母さんは、どんな人だったの?」
「二人とも優しい人だった。お前のように。お前のことを誰よりも気にかけていた」老人は答えた。
「もうどこにもいないのかな」
「どこかにはいるだろう。きっと。どこか遠い、別の時間の世界をさまよっている。しかし、私達の道筋とは二度と交わることが無い所かもしれない。誰にも分からない。だがきっと、二人ともお前のことは忘れていないはずだ」
 少年は、その言葉を聞いてもじっとして動かなかった。「じゃあ、僕のおばあさんは?」
 老人はしばらくの間、焚き火を見つめていた。
「お前のおばあさんも優しい人だった。今の私よりもお前を可愛がっていた。ああ、あの『大交錯』の起きた日も、お前に菓子を買ってきてやるために出かけていた」
 少年は、少しの間を置いてから、「おじいさんにとっては、おばあさんはどんな人だったの?」
 老人は少年の顔をじっと見ていた。
「なぜそんなことを訊く?」
「今よりもっとたくさんの人達が周りにいた時って、どんな感じだったのか、知りたかったから」
 老人は、再び焚き火に視線を戻していた。枝を掴んで焚き木をかき混ぜた。それから、長い深呼吸の後に、咳をした。「お前にその話をしてやることはできる。しかしな、私はそれに意味を感じない。それは、二度と戻ってこない世界の話にしかならんからだ。同じ夢を二度と見ることができないのと同じように。分かるかい? 今はもう、全てが変わってしまった。何もかも。もうその世界は、私達には再び手にすることができんのだ」小さく首を振っていた。
 少年は、食べられるところの無くなった骨を地面に置いた。
「なら、僕達はどうして歩き続けているの?」
「私達は、元の世界に帰るために歩いてるのではない」少年の背中に、大きくてごつごつした手を置いた。「代わりに、新しい世界を見つけようとしているのだ」
「それは、どんなところ?」
「お前が誰か他の人と一緒にいられるところだ。たくさんの人ではない。ただ、お前が一人でいなくて済むところ」
「今は僕は一人じゃないよ」
 老人はしばらく無言だった。
「今はまだな。今はまだ」それから、少年の身体を抱き締めた。少年もその背中に腕を回した。

 ウサギを食して、夜が明けると、彼は足跡のある場所へと戻った。辛うじて残っている痕跡は、笛の持ち主がこの先の別の山を登ったことを示していた。しかし、その山には道らしい道は無い。
 あれを越えるだけの体力はあるだろうかと、少年は自分の身体に訊いた。いずれにせよこれを登るしか無いと、頭の中の声が代わりに答えた。
 山にはほとんど木は生えておらず、三十メートルほど登ると、ほとんど砂と岩だけになった。風が山の上から砂埃を落としてくる。足跡はそれによってすっかり覆い隠されていた。峠に近づいて風が強くなると、少年は立ち止まって、茶色のレンズのゴーグルを目に付け、スカーフで口を隠して再び歩き始めた。
 峠の少し手前で、明らかな境界線に行き当たった。誰かによって精密に計算され切断されたかのような滑らかな断面を持つ岩が、あちこちに転がっている。少年はそのうちの一つに近づくと、その陰に腰かけて、脇に荷物を下ろし、しばらく肩で息をしていた。ここまで来て、この登山は無謀だったと知った。足跡はここにも残っていない。この頂上からどの方角へ下りることもできるようだが、分からないのはどちらへ下りれば良いかだった。
 彼は水筒に残った水を少しだけ口に含み、それから荷物を抱えて歩きだした。
 頂上だと思われる地点に立ち、その場からぐるりと周囲を見回した。そして考えた。自分が持ち主だったら、どこを目指して歩く?
 分かるはずがなかった。知っているのは、その持ち主が痕跡を残したということだけで、それ以外にその人物についての知識は、何一つ無い。どんな見た目をしているか、どこから来たのか、そして、どこへ行こうとしているか。
 完全に道しるべを見失ったという実感に身体が呑まれるのを感じた。一人、何も無い山の頂上に取り残された。彼はその場に座りこんで、これからどうするべきかを考えた。
 一つの方角の地平線に目を凝らし続け、しばらくするとまた別の方角に目を転じた。どこを向いても、持ち主がそちらへ行くところを想像できる気がした。つまり、どれも真実ではない。
 少なくとも西に行けば、でこぼこと連なった山を渡っていくことになる。それなりの装備があれば渡っていくこともできるだろうが、少年の直感は、持ち主にその用意は無かったと考えていた。しかし、そうだとしたら結局どこに行ったことになる?
 彼は、これまで通ってきた平野と山の方を眺めた。寒々しい色の土と、ところどころに広がる緑の草原のモザイク模様。
 そこから振り返ると、さして変わらない光景が広がっていた。茫漠と続いている白い砂地と、まだらに立つ林。廃墟の街の一部分。
 後戻りする理由は無かったが、先に進む動機も同じぐらい見つけられない。しかし、頂上に留まっていると、強い日光で肌がじりじりと焼かれていく感覚があった。
 立ち上がって、服に着いた砂を風の中に飛ばした。そして、これまで歩いてきた方角ではない方へと歩き出す。しかし、今の自分は笛の持ち主の痕跡を捜そうとしているのか、それとも自分の意志で行き先を決めているのか、彼は確信を持てなかった。

 山を下り、砂地を歩き続けた。人間の足跡はどこにも無い。代わりに、誰のものでもない人工物が見えてきた。だだっ広い地面に、電柱と呼ばれる木製の棒が直線状に何本も突き刺さっており、それぞれの柱の頂点をつなぐコードが、風に揺られてぶんぶんと音を立てていた。少年はコードを伝うように、その下を歩いた。
 丘を一つ越えると、やがて、石造りの平らな構造物が見えてきた。剥き出しになった建物の基礎のような外観。コードはそこの側の、錆びついた金属の箱の一つに繋がっていた。石造りの構造物は南北に細長く、中央に走る溝によって二つに分かれていた。その溝には、細く艶やかな鋼鉄が二本並行して敷かれていて、それらは南北の地平線にずっと繋がっていた。
 以前も少年はこれと似たような場所を見たことがあった。老人は、これはかつて電車という大きな車が大地を走っていた時に使われた場所だと教えていた。だが、今はどこにもその車の姿は見えない。少年は、石造りの上をしばらく調べた。砕け散った柵が床に転がっている。壁に貼られた大きな紙は、白く変色して何も読めない。
 それから地面に敷かれた鋼鉄の間に下りた。南に行けば、さっき越えてきた山の方向へ戻ることになる。少年は、鋼鉄の下に置かれている腐食しきった木材を踏みながら、北へと歩き出した。
 珍しいことに、鋼鉄の軌道はどれだけ歩いても、別の並行世界の境界線で寸断されるということがなかった。より多くの世界で、この軌道が同じ空間上の位置に存在しているということになる。ずっと昔からあるもの。やがてその道は深い緑の森の中に入って行った。落ち葉が鋼鉄の上に降り積もっていたが、その軌道上には樹は育たないので、迷うことなく辿ることができた。これまで追ってきた足跡よりも、ずっと明らかな手がかりだった。
 二本の鋼鉄は、どこまで行っても不変の物体のように見えた。ほとんど同じように滑らかな表面を持ち、同じような形状を保ち続ける。二本の間の距離は常に一定だった。ある方向へ曲がる時も、片方が寄ればもう片方は同じだけ離れる。二本は交わることは無かった。しかし、交わらないことによって、上に乗せる物を前に進めることができる。

 周囲の草木の数が減り、空の光がよく届く開けた空間に出た。左に三百メートルほど離れた斜面の下には、土の色をした水を流す川がある。ここに来て、この軌道はその川におおよそ沿って作られていることに気付いた。彼は先を進んだ。やがて木々はほとんど無くなった。
 軌道の百メートル以上先に、複数の人間がいるのが見えた。少年ははたと足を止めた。
 向こうも同じように止まった。こちらをじっと見ている。そのままどちらも動かなかった。少年はその場で周囲を見た。挟み撃ちにされることを警戒したが、人が隠れられそうな場所は近くに無い。
 向こうにいるのは、四人組だった。背格好はばらばらで、四人とも大きな荷物を抱えている。四人組は相談しているようだった。少年はまた振り返って、さっき通り過ぎた森までの距離を目測した。
 四人組のうちの一人、豊かに黒い髭を生やした背の高い男が、こちらを見た。仲間の方を振り向いて何事かを話してから、彼は背負っていたバッグをその場に下ろした。腰に巻いていた銃のベルトも外して置いた。それから両手を挙げると、こちらに向かって、軌道の上をゆっくりと歩いてきた。注意深いが、同時に自信を感じさせる足取りだった。

 

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