軌跡 2章 (2/2ページ)

 二階は左右に廊下が伸びていた。外から見た窓の数から考えて、左右にそれぞれ二部屋ずつありそうだった。しばらく立ち止まって耳を澄ましてから、少年は右へ進んだ。
 手前の一部屋は書斎だった。本棚が一つ床に引き倒されて、その下にひしゃげた何冊もの本が、潰されたカエルみたいに覗いていた。部屋の奥に扉が一つあった。その先は寝室だった。二人分の大きさのベッド。毛布や枕は取り去られていた。部屋の別の扉を開けると廊下に出た。もう一度寝室を見回してから、少年は反対側の廊下へ向かった。
 こちらも同様に部屋が二つ並んでいたが、近づくと、饐えた臭いを微かに感じた気がした。
 扉のノブに手をかけて、少しためらってから一気に開き、銃を構えた。そこも寝室だったが、向こうの部屋よりベッドは小さく、床にはかつてカラフルだったであろうおもちゃ箱が転がっていた。奥隅には、カーテンのような大きな布の塊が、洗濯の後に放っておかれたように積まれていた。臭いの正体はあれかもしれないが、わざわざ調べてみる気にはなれなかった。
 思えば、一階と二階のこれまで見た部屋全てでカーテンは略奪者によって持ち去られていた。
 部屋の右手にやはり扉があり、少年はそちらへ進んだ。扉の枠に何気なく目をやった時、その側の壁に、ひっかき傷と黒い染みがあるのを見つけた。足元で少し靴を動かすと、床が少し粘ついているみたいに、ばりっと音を立てた。何か液体が乾いた後のような感覚だった。
 屋敷に入る前にもちろん銃に実包を込めてあった。少年は、右手で銃を握り直すと、少し後ろに下がり、引き金に指をかけながら、左手でノブを持った。少しだけ待った後、そっと押した。
 扉は勝手に開き、クローゼットの側面にぶつかって止まった。そこも子供用の寝室のようだった。ベッドがあり、その横に机があった。その脇には、薄汚れたズボンやシャツなどの衣服がやはり山のように積まれている。
 部屋の中に一歩足を踏み入れ、さらにもう一歩進んだ。銃を部屋の隅々に向けたが、何も無い。鼻から息を吐きながら、銃口を下ろそうとした。背後から何か大きな力がかかるのを感じた。首の周りに何か硬いものがぱっと巻き付き、彼の呼吸を止めた。そして、仰向けに床に倒された。
 背中の下にいる人間の口から漏れる息が、耳の近くに聞こえる。少年は銃床で、首を絞めるものを持っている手を叩こうとしたが、距離が近すぎて効果が無かった。そこで腹の筋肉にありったけの力を込め、少しでも高く頭を持ち上げようとした。襲ってきた人間は、それと反対向きの力を首にかけていた。
 次第に音が聞こえなくなり、指先の感覚が無くなってきた。もうこれ以上は上げられないというところで、彼は後頭部を思い切り下へ落とした。鼻頭に当たった感覚があった。首にかかる力が僅かに緩んだ。隙を見逃さず、少年はもう一度頭を上げ、そして振り下ろした。更にもう一度。悲鳴は男の声だった。猟銃を床へ投げると、首に巻きつくものをもぎ取って、勢いよく起き上がり、振り返った。男は薄汚いなりをしていて、顔を血で真っ赤に染めていた。ふらふらと頭が揺れていたが、なおもこちらに飛びかかろうとしたので、肩の辺りを狙って蹴った。男の身体は跳ねて、ドア枠にぶつかった。
 男が使ったのは、赤黒く汚れたロープだった。少年は呻いている男の腕を引っ張って、床にうつ伏せにさせると、両手を背中の後ろに回させて、ロープできつく縛り合わせた。
 部屋の隅にあった布の塊は、小さくしぼんでいた。銃を拾い上げ、距離を置いて男に向かって構えた。
「やめてくれ、殺さないでくれ、頼む」男の呼吸は、引きつけでも起こしたみたいに素早かった。
 骨と皮ばかりに痩せきった男だった。破れたテントを継ぎはぎして作ったような服を着て、青白い肌には湿疹が浮いている。血走っている目は、緊張と恐怖で見開かれていた。
「ならなぜこんなことをした」
「すまなかった、すまなかった」謝る気持ちを示すように、男は頭を前後に振った。「略奪者が来たと思ったんだ。家に上がり込んできて、俺のことを襲ってくるんじゃないかって」
「あんたはこの家の主か」
 男は少し間を置いて、頷いた。「ああ」
 少年は続き部屋の方を見やり、また男に視線を戻した。「他の人間は。いないのか?」
「ああ。俺が、俺で最後」
 しばらくの沈黙の後、少年は銃を下ろした。ようやく呼吸が落ち着いてきた。
「僕も、家に誰か人間がいるとは思わなかった。銃を持って家を物色したのは、謝る。あんたを殺すつもりは無い。ただ、食糧を探しているだけなんだ」
 少年はしゃがんで、男の目を見ようとした。饐えた臭いがまた鼻を突く。
「どこか、良い場所を知らないか? 教えてほしい」
 再び沈黙。
「し、知らない。知らない」
「そうか」少年は、男の細い腕を見た。あれだけ強く絞める力を出せるとは思えない腕だった。
「でも、あんた自身はどうやって食いつないでるんだ。狩りをしているのか?」
 ふいに男の顔に微かな笑みが浮かんだ。「狩り……、そうだ、狩りをしている」
「何を狩るんだ? この森にいるのか?」
「色々だ。見つけたものなら食う、何でも」
「どこで狩りをするんだ。どんな道具を使う?」
「あんた、あんたは旅をしているのか」男は質問に答えなかった。
「そうだ」
「なんで、旅をしているんだ?」
 少年は少しの間考えてから、首元に手を伸ばし、シャツの下から赤い笛を取り出した。
「この笛を持っていた人を捜している。僕と同じ、一人で旅をしている人だ。最近、誰か一人きりの旅人を見かけたことは?」
 男は、じっと笛を見つめていた。「いや、知らない。俺が見たのは、みんな二人連れ以上だ。なんでその人を捜している?」
 少年は、開いたままの扉の辺りを見ていた。「自分でも、よく分からない。でも、会ってみたいんだ。まだどこかで生きているなら、会って話をしたい。僕は、ずっと一人で旅をしてきたから」
「へ、へぇ。どこにいるのか、探すあてはあるのか?」
「いや」と少年は首を振った。「ここの近くの道を通って山を下る人間がどこを目指すか、知らないか?」
「さぁ。俺はあまり外に出ないから……」
 彼は眉をひそめた。「狩りをしてるんじゃないのか」
「たまに、たまにだよ」男は咳をした。「なぁ、あんた野宿してるんだろう。どうだ、今晩はここに泊まっていかないか」
 束の間、少年はその申し出を真剣に考えた。
「ここは安全だ。雨風をしのげる。悪くないと思うぞ、少なくともずっと旅をしているよりは。何だったら、一晩と言わず、いくらでもここにいて良い。食い物なら、探せばある」
「何があるんだ?」
 再び沈黙が下りた。男の目は泳いでいる。「とにかく、あるんだよ。さっきはすまなかった。だから、ロープをほどいてくれよ」
 少年は立ち上がって、一歩退いた。
「何してるんだ? 頼むよ、食い物なら見つけて、あんたにやるから」
 男の言葉を無視して、少年は隣の部屋に行き、積み上げられた衣服を見た。種類も大きさも異なるものが一緒くたにまとめられている。一人の人間の衣服ではない。シャツには穴が開き、ジーンズには土や砂の汚れが付いていた。上の部分を少し崩すと、中から一枚のシャツを引き出した。首元に、赤黒い染みが残っている。別の上着には、腹部の辺りが大きく切り裂かれていて、その周りも同じような染みが滲んでいた。
 少年はその寝室のドアを開けて、廊下に出た。
「おい、おい。どこに行くんだ! 俺を放っておくな、どうしたんだ!」
 階段の手前まで来た。
「僕は、ここにはいられない。お前の食糧も要らない」
「どうしてだ! ここにいれば何も心配はいらない。危険を冒して旅をするよりずっと良い。外に何があるんだ? お前が追っている人間なんて、もういないかもしれないんだぞ!」
 少年は、寝室の方を振り返りかけて、また前を向いた。
「ここにいても、いずれ一人で死ぬだけだ」
 それから階段を下りて、外に出た。
 屋敷の裏の、盛り土がされた地面の下に何が埋まっているかは、掘り返さなくても想像が付く。
 ふと、後ろの髪の毛に男の鼻血がべっとりと付いていることを思い出した。少年は、そこに手を当てて、それから玄関扉の脇の白い壁にその手の平を押し付けた。赤い手形が出来上がった。誰かが屋敷に入る前に、嫌でも目に入る。
 少年は、猟銃を肩にかけて、本道へと戻る道を歩き出した。

 

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