軌跡 2章 (1/2ページ)

 少年の前には、新しい道が見えるようになっていた。
 森を出た足跡は、間もなく現われた別の草原の世界でもおおよそ保存されていた。それはさらに三つ丘を越えて、一つ山を登り、その後平坦な盆地へと続いた。
 三十キロあまりの道程で、数百年もの開きのある異なる並行世界を移動することもあったが、どうであれそれらは少年が一日に移動した距離でしかなくなっていた。
 淡い黄色の落ち葉の散る森の世界を歩いた。『大交錯』により、季節も無視されて一つの太陽の下に曝された植物は、今がいつなのかも分からないまま、ともかくそれまでの時間感覚を保とうとした。しかし、耐えることのできなかった草木から順番に枯れていった。この森も、これからゆっくりと死んでいくかもしれない。
 少年は、持ち主が通った道を時折外れては、藪の中に分け入って、ほんの僅かに残った木の実やキノコを見つけ、布にくるんで背中のバッグにしまった。羚羊と二頭のヒョウ以来、動物の姿は全く見かけなかった。まるでこちらの居場所を知っていて、早々と逃げてしまったかのように。

 木の生えていない山のふもとに、夜を明かすのにちょうど良い乾いた岩屋を見つけた。バッグに入っている食糧の蓄えは、既に残り二日分を切るところだった。使い古した火打石を何度も打ってようやく火を起こすと、缶詰に入った豆を煮て、拾った木の実と、乾パン二切れを口にした。その後眠りに就いたが、翌朝は夜明けの光よりも空腹によって目が覚めた。
 山を越えた先の平原に、無人の街を見つけた。元々の世界でも廃墟だったのか、それとも大交錯の後でこうなったのかは、区別が付かない。少年は岩に座って、双眼鏡で街の様子を見た。家々の壁は砂埃によって白くくすみ、草木はどれも干からびて白くなっていた。
 下りて行って、一軒一軒を見て回ったが、あらゆるところに荒廃の跡があるだけだった。パン屑一つ見つからない。路肩に打ち捨てられ錆の塊となった車からは、ガソリンが全て抜かれていた。老人の話に聞いただけで、少年は一度もそれが動いているところを見たことは無い。
 例の足跡も、街の目抜き通りを何度か往復していた。彼もそれを辿ってみたが、もし笛の持ち主がどこかで食べ物を見つけたとしても、そこにいくらかも残しておくはずは無いので、意味が無いということに気付いた。
 足跡はある民家の中に続き、その中では、誰かが一晩を明かした跡が認められた。テーブルの上には開けられた缶詰が置かれ、暖炉には他の家には無かった炭と灰が残っていた。どれくらい前のことだ? 数時間前? 数日前? 数週間前?
 笛の持ち主は、街を出ると西の山脈へと向かっていったようだった。

 次の夜も、乏しい食糧を切り詰めて腹に入れた。周りには暗闇が広がっているが、どこにも明かりは見えなかった。虫すらも鳴くことをはばかっているかのような静寂。
 横になっても眠気は訪れない。寝返りを打つと、首に下げていた笛が鎖骨に触れた。
 考えたくはないことが頭に浮かんで消えなかった。もしこのまま空腹が限界を迎えて、今にも倒れそうな時に、この笛の持ち主に出会ったとしたら。彼または彼女が、食べ物を差し出してくれるほど親切な人間であるという見込みは、どれくらいあるのだろう。
 
 陽の光があまり差さない薄暗い森の世界を歩いた。足跡は、疲れを知らないかのようにどこにも立ち寄らず、ほとんど間隔を緩めない。少年は川を探すために何度も道を逸れたが、どこも既に涸れていて、黒ずんだ落ち葉が積もっているだけだった。時々鳥の引きつったような鳴き声は聞こえてくるが、カモのような大きな鳥の存在は感じられない。
 少年は、峠の辺りで歩くのをやめて、ブナの木の根元に座り込んだ。足跡が森の本道をどこまでも突き進んでいくのを見た。そして、肘を膝に突いて、手で頭を抱えた。なぜ立ち止まらないんだ? 一体どこを目指して旅をしている?
 このまま歩き続けることはできない。追いつくには、この持ち主よりも速く歩き続けなければならないが、今はそうすることはできない。再び立ち上がるまでに長い時間をかけて休み、水筒に少し残った水を数滴舌の上に乗せた。
 峠以降、道は崖を避けるようにして、緩やかに蛇行していた。足跡は落ち葉に隠れて見えなくなったが、同じ旅人である持ち主の気持ちを想像すれば、ここで用も無く本道から逸れるとは考えにくい。
 しかし、山の中腹を過ぎたところで、左手に曲がっていく本道とは反対の方向に、木々が直線的に開けている空間に気付いた。そこの地面も落ち葉に覆われているが、以前脇道があったとしてもおかしくない光景だった。少年は今通ってきた道を振り返り、それからこの先の道を見やった。足跡はどこにあるか分からない。だが、少年は肩にかけていた猟銃のストラップをかけ直すと、その木々の間を歩き出した。

 道の先で、ふいに視界が開け、その広場に古びた屋敷があるのが見えた。今自分が通ってきた道は引き込み道だったのだと分かった。木造の二階建て。黒く傾斜のある屋根。壁の白いペンキは多くが剥げてしまって、内側の腐食した木材が覗いていた。
 少年はそれ以上は近寄らず、引き込み道の脇にある斜面を苦労して上ると、双眼鏡を取り出し、茂みの側で地面に腹這いになって、遠くから屋敷の様子を観察した。
 正面から見て、窓は一階に二つ。二階に四つ。ひどく汚れて曇っていて、中の様子は分からなかった。だが、一つも割れていない。玄関は、黒い木の両開きの扉で、遠目には長い間訪問者を迎えていないようにも見えた。蔦が、二階の雨樋まで絡みついていた。
 旅する人間をおびき寄せる罠にしては、随分と奥まって目立たないところにあると思った。しかし、自分のような切羽詰まった人間なら見つけるだろうという気もした。少年は、そのままの姿勢で屋敷の様子を注視した。小一時間経っても、どこにも動きは無かった。立ち上がると、屋敷のある広場へ下りずに、そのまま広場を囲む高台をぐるりと歩いて、屋敷の反対側が見える位置まで来て、そこでも双眼鏡を覗いた。
 裏口が一か所あるが、扉への階段は壊れていた。日陰の地面には苔が生えていたが、一階の窓の一つの真下に、高さ三十センチほどに土が盛られている場所があり、そこには雑草も生えていなかった。
 屋敷から離れたところに物置小屋があり、少年は斜面を下りて、その小屋に向かった。軋んで甲高い音を立てる扉を開けると、厚い蜘蛛の巣が正面にカーテンのようにかかっていた。近くに落ちていた木の枝を使ってそれを払い除け、奥を覗いた。壁の三面に木製の棚がある。スプレー缶とペンキ缶。床には、空になった灯油の缶と、空気を入れるためのポンプ。
 今なおここを物色して良いかどうかためらっていたが、それはそこの屋敷に人がいることを暗に予期していることからくる感情だった。しかし、これが人の住んでいる家の見た目か? 今の小屋の扉を開けた音に、何の反応も起きないのは?
 棚の上に工具箱を見つけたので下ろし、蓋を開いた。ねばねばした物体によってくっついたドライバーを何組か外に出し、最も錆が少なくて丈夫そうなマイナスドライバーとペンチをポケットにしまった。さらに戸棚から、汚れているがまだ粘着力のあるガムテープ一本を拝借した。
 ふいに胃が自らが空っぽであることを主張してきて、少年は小屋の側で腹ごしらえをした。屋敷の中に食糧が残っていることを無邪気に期待してはいなかった。でも、あそこも探索しなければいけない。たとえ中に何があろうと。

 少年は玄関ポーチの前に立った。窓に目をやったが、その向こうで影が動く気配は無かった。扉の枠の脇に立って、扉へ腕を伸ばし、三回ノックした。中で万が一の遭遇があった場合に、お互いに動転して銃を向け合うことを避けたいからだった。
 だが、分かっていてなお銃を向けてくる人間がいた場合は、どうしようもない。
 もう三回ノックしたが、何の音も聞こえてこなかった。猟銃を肩から下ろすと、腰の高さで持った。左手を伸ばして、両開きの扉の片方を開放し、そしてまた束の間待った。
 銃口が上を向くように猟銃を掲げ持つと、何度か浅く呼吸して、それから開いた扉の前に素早く進み出ながら、後ろを振り向いて銃を構えた。薄暗い空っぽの廊下と、奥に二階への階段が見えた。
 猟銃を腰の高さに持ち直して、屋内に入った。床には砂が溜まっていた。壁紙はあちこち変色してひび割れていた。廊下の左右に扉があり、右側は居間らしき空間で、左側は大きなテーブルのある食事部屋のようだった。少年は左に入った。
 部屋は既に略奪し尽くされていた。テーブルの下には、カーペットのちぎれた一部が無造作に落ちていた。空になった缶やビニール袋、紙箱などのごみが、無造作に捨て置かれている。宿る場所を見つけることができた旅人達の食事の跡。部屋の隅には、観葉植物用の割れた鉢が転がっていた。
 隣の部屋が厨房だった。手前の壁際に冷蔵庫。部屋の中央に調理台。奥の壁に流し台と戸棚。冷蔵庫の中には、空っぽの暗闇があるだけだった。少年は別の戸棚を調べた。全て、麦やトウモロコシの一粒に至るまで持ち去られたようだった。何度確かめても変わらない。口から思わずため息が漏れた。流し台の下から、スプーンを何本かと、錆の少ないナイフを一本持っていくことにした。
 洗面所にも入った。水気はどこにも無い。その隣は居間だった。中央に革がぼろぼろに破れたソファ。脚の折れた低いテーブル。上には黄ばんでしわになった書類が積み重なっていた。少年が知っている時間から数年後の水道代の利用明細。数年後の水道代の利用明細。どこか美しい街並みの写真が載った冊子。
 階段の下に立って、天窓から差す光に照らされて埃が舞っているのが見えた。猟銃を階上へ構え直すと、一段一段ゆっくりと上っていった。階段は足を乗せる度に軋んだ音を立てた。

 

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