軌跡 1章

 少年が最初の痕跡を見つけたのは、およそ七百九十回前の越境の時だった。

 強い風によって、乾いた地面の砂が宙に巻き上げられていた。太陽は天頂近くに照りつけて、木立の下には色濃い陰ができていた。
 一頭の羚羊(れいよう)が、その木立の中から光の下に歩み出ていって、背丈の低く葉の細長い草地に足を踏み入れた。耳をぴくりと動かし、緩慢な動作で首を伸ばした。黒い目を見開くと、木立と、そこを囲むように周りに広がる砂地の静けさを見渡した。
 少年は、その羚羊が首を下げて、足元の草を食み始めるのを見た。そして、木の根元にある土の窪みから、音も立てずに這い出た。右手で猟銃の銃把(じゅうは)を握り、左手で銃身を持ちながら、一メートル手前にある草むらに向かって、肘を突いて前進した。
 草葉がちくちくと顔に当たったが、少年は目を閉じないようにしていた。そっと頭を上げて、羚羊までの距離を五十メートルほどと目測した。その草むらから先には、身を隠すための遮蔽物は無い。
 羚羊がこちらに気付いていないことを確かめると、少年は準備を始めた。水平に二つ並んだ銃身をヒンジ部分で折って、両方の薬室に弾薬が入っていないことを確認した。腰に巻いた弾帯からバックショットの実包を一つ取り出すと、左側の銃身に入れて、閉じた。右側の薬室を使わないのは、そちらの撃発機構が壊れていて撃てないからだった。
 彼は、這っている状態からゆっくり腰を浮かせ、片膝を前に出して、次いで背中を上げようとした。羚羊は、急に不安を覚えたかのようにこちらに顔を向けた。背を屈めている間は、少年の視界も草に遮られる。虫の羽音がどこかから聞こえてくる。風は吹いたり止んだりを断続的に繰り返していた。
 少年は銃身を支え上げて、羚羊のいる方向へ向けた。深い呼吸を始め、意識を前方に集中させた。左右に二つ並んだ引き金のうち、左側に指をかける。
 体の右側をこちらに向けて、羚羊が前に歩き始めるのが見えた。ひどくゆっくりとした足取りに見えたが、少年の視界の中で動いているものはそれしか無かった。銃口は、その隆起した褐色の背中に合わせられていた。
 二十歩ほど歩いて、羚羊は足元に別の草地を見つけた。耳を動かし、ためらうようにそこで足踏みをした。首を回している。目と目が合わないように少年は祈っていた。次に風が止んだ時、羚羊はようやく首を下ろし始めた。
 大きな音を立てて銃身が跳ね上がったその瞬間も、羚羊はまだそこにいた。外したかと思ったが、右後脚の辺りに赤黒い飛沫が見えた。その一つ一つが、少年の瞳に精細に映った。羚羊は体勢を大きく崩しながら、それでも一瞬後には走り出した。後には砂埃が残った。
 少年は立ち上がり、猟銃の革紐のストラップを右肩にかけると、後を追って走った。羚羊がいた場所には、褐色の体毛が散らばっていた。血がそこに交じっていたが、量は多くない。羚羊の体力はまだ十分残っていると考えた方が良かった。
 砂地には、荒々しい足跡が残っていた。それは小さな丘のふもとに沿って走っていたが、斜面が緩やかになるところを上り始めて、やがて尾根の向こう側へ消えていった。少年もそれを辿ったが、丘の尾根に近づいてくると、身体を低く屈めて足取りを遅くした。そして、尾根の手前で地面に身体を投げ出し、うつぶせになると、頭だけをその向こう側へと覗かせた。
 
 すぐ近くに森があったが、木々の葉はほとんど枯れて落ちていた。灰色ばかりの森。背後にある木立とは全く違う色彩。少年は初めて、丘の向こうに境界線があったことを知った。足跡は、その森の中へ消えているが、動いているものはどこにもない。
 少年は立ち上がって、砂を払い落とし、丘を駆け下りていった。この時は、境界線の目印ははっきりしている方だった。森の一番端にある木が、真上から雷を打ち下ろされたように、根元まで半分に削がれて倒れていた。
 森の入口に立つと、再び猟銃を下ろして、空の薬莢を取り出して腰のポーチに入れ、別の実包を詰め直した。地面を見ながら歩き出した。ここに来ると、風はほとんど吹いておらず、新たな落ち葉も降ってきていなかったので、羚羊が通った跡はほとんどそのまま残っているはずだった。実際に、薄く色褪せて乾いた木の葉に交じって、その下にあった湿って黒ずんだ葉と土が掘り返されているところが点々と見つかった。彼はそれを辿った。
 しばらく進んだところに、地面が剥き出しになっている場所があり、五歩分の足跡がはっきり判別できた。それぞれの間隔は、先ほど砂地で見つけたものよりもかなり狭くなっていた。ここで走るのをやめたということで、それならば、ここからまだそう遠くには離れていない。
 少年はその場に屈んで、目を凝らして辺りを見回した。くすんだ色の木の幹以外に、何か見えないか捜した。
 何かが土の上を引きずられるような音を聞いて、少年はその方向に銃を向けた。姿は見えない。そこには、地面が隆起して崖になったところがあり、音はその上から聞こえたらしかった。近くへ進むと、もう一組の足跡も見つかった。足音をできる限り殺して歩くやり方に少年は慣れていたが、落ち葉や枯れ枝で埋まっている地面では、それは細心の注意を要した。
 崖への坂を上っている間に、再び何かが聞こえた。枝と枯れ葉が地面を擦る音。少年は銃を構えて、崖の上に立った。
 坂のふもとで羚羊が倒れているのが見えた。その側に二匹のヒョウがいた。羚羊の首筋には、少年が右後脚に作った銃創よりも鮮やかで深い致命傷が開いていて、周りの地面は黒ずんでいた。ヒョウは音も立てずに獲物の腹部を引き裂き始めていた。
 この世界に属するヒョウではないと少年は思った。土色の体毛はこの森ではあまりに目立ちすぎるし、今のような幸運に出会えない限り暮らしていけるわけがない。しかし、今彼らは幸運に出会っていた。
 少年は同じように銃を構えたまま、一歩ずつ後ずさって、その場から離れた。

 朱色の光によって照らされ始めたその森の中を歩き回った。しかし、あの二匹のヒョウ以外で、どこにも生命の気配は無かった。ならば、ここ以外の世界に期待する方が早かったが、近くに境界は見当たらなかった。
 自分の足音以外に聞こえるものは無い。彼の耳が最も慣れた静寂。どこに向かっているか彼自身知らなかった。方向感覚を失ったわけではない。ただ、今の彼は目的地を失っていた。
 そもそも、この旅に目的地などあったのか。
 前方に開けた空間が現れ、その真ん中には朽ちた倒木があった。傾いた陽射しはここまで届いていて、倒木の虚(うろ)の中に生えている湿った苔がてらてらと光っていた。ふと思いついて、そこの地面に溜まった落ち葉を払い、石をいくつかひっくり返してみたが、虫の姿は無かった。
 立ち上がろうとした時、地面の中に何か艶のある白い突起物を見つけた。今まで落ち葉の下になっていたので、気付かなかった。拾い上げて土を払うと、それは骨だった。ウサギか何かのもののように見えた。もう少し掘り返すと、さらに四本見つかった。
 さっきのヒョウのような肉食獣が、ここで獲物にありついていた? この世界が冬を迎える前のことだろうか。あるいは、さっきの羚羊のように、別の世界からやってきてここで死んだ生き物がいたのか。
 足元の土をよく観察して、別のものを見つけた。腐食した真っ黒の木片が三十本ほど。種類や大きさや形はまばらだが、それらは一か所で山を作るように円形に並んでいた。その近くには、ぼろぼろに破れたビニール袋と紙袋、開けられた缶詰も埋まっていた。いずれも中には何も入っていない。
 どれくらい前のことなのかは、見当の付けようも無かった。だいたい、今ここでこれを見つけたからといって、何になる? 自分は過去の一部分を見つけただけだ、と少年は思った。これだけを根拠に、これから自分がすることを決めるのは、馬鹿げている。
 彼は発掘したものを、元のように埋めた。懐から水筒を取り出すと、かつてここにいた人間が座っていたかもしれない石の上に腰かけた。水を少しだけ口に含んだ。
 側にある木の根元に何気なく目をやった時、その赤色がくっきりと視界に浮かび上がった。人差し指の長さほどの、鈍く光っている細い物体。それは地面に落ちていたというより、根の窪みに立てかけられていた。少年がそれを拾い上げると、その物体には細い紐も付いていた。砂を払い落とすと、円筒の両端と中間に穴が開いていて、それが笛だと分かった。赤色の金属の表面には何も刻まれていない。紐は、首から下げるのにちょうど良い長さ。
 口にくわえて吹いてみようとしてやめた。あのヒョウはそろそろあの場から離れているかもしれない。そして、この笛の持ち主がこれをここに捨てた理由を直観した。
 もう誰かに聞かせる必要が無くなったのだ。
 少年はその笛を手の平に載せて、しばらく金属の冷たさを感じていた。今さっき否定したばかりの考えが、もう一度彼の意識に上っていた。しかも、彼にも分からない理由で、今度はそれを拒むことが難しくなっている。
 手がかりはこの笛だけしかない。いや、これは手がかりにすらなっていない。これは、かつての持ち主が今どこにいるのかも教えてくれなければ、まだこの世にいるのかどうかも教えてくれない。これは、切り捨てられたのだ、旅をする人間が手放さなければいけないあらゆるものの一つとして。
 それでも、少年は考えを巡らせた。自分はどちらを選ぶだろう。このことを忘れて旅を続けることと、忘れないで旅を続けること。
 彼は、細い紐だけを指でつまんで、笛を宙吊りにした。赤い輝きがぐらぐらと揺らいでいた。
 しばらくそうしていて、そして紐を両手で持って広げると、そこに首を通した。笛が胸元に下がった。
 彼は立ち上がった。骨と朽ちた薪に最後に一瞥を投げかけ、それから倒木の横を回ってその向こうの木々に分け入って歩き出した。
 少年が、森の外に通じる、一人分の靴の足跡を見つけたのは、それから間もなくのことだった。

 その老人は、少年の唯一の肉親だった。彼は、少年にものを教えてやることができた最後の人間で、残りの短い生涯をその仕事に捧げた。
 幼い頃から少年は彼の言葉を通して世界の見方を学んだ。すぐに理解できたこともあれば、そうでないこともあった。しかし、いずれの言葉も彼の頭からこぼれ落ちることは無く、少年は当時分からなかった話も、折に触れて何度も思い出すことでその意味を形作っていった。
 狩りの仕方と痕跡の探索は、一番重要な教えだった。それでも、いつかは十分な水準で習熟することができるものだから、それが終わると老人はもっと色々な話を聞かせた。例えば、あの日世界に何が起きたかについて。
 本当は、人類の誰も確かなことは知っておらず、そして知る術も失われてしまっていた。老人の語った話も、彼個人の考えに過ぎず、曖昧さや強引さを含んだところがあったが、後に少年が別の複数の人間から聞くことになった話と共通する部分はあった。

 ある日、人類のほとんどは、どこであれ身の周りの景色が突然変化したことに動揺した。ある土地では夜が急に昼になり、またその逆もあった。
 街の建物の外壁の色合いや、街路樹の葉ぶりが変わるだけという些細な変化もあれば、見知らぬ建造物が急に生えてきたり、以前からあった家が廃墟になっていたりというあからさまな例もあった。
 当時老人が目撃したのは、青空の一部に突然現われた黒い雲だった。それは、まるで上から誰かが気まぐれに引っ張ったような線に沿った人工的な形をしており、その下ではおよそ二百メートル四方にわたって季節外れの雪が降り積もっていた。別の場所に目を転じると、山を覆う森の半分が、計画的に伐採をした後のように禿げていた。街にあった大きなスーパーマーケットの敷地には、全く見慣れない十階建てのビルの廃墟が立っていた。他にも、一部を綺麗に切り取られた家や、全部が跡形も無く消え去ってしまった家がいくらでもあった。
 老人はテレビを点けようとしたが、電気は既に通っていなかった。ラジオは乾いた雑音だけを発していた。老人は、買い物に出かけた彼の妻のことを気にかけていた。まだ幼かった少年は、おもちゃで遊ぶ手を止めて、空にでたらめに現われた雲のモザイク模様を仰ぎ眺めていた。
 どこの街からも、多くの人間が消えていた。道路は空っぽになり、大半の家から物音が聞こえなくなった。そして、運良く出会えた人間も、老人の見知った人間では無かった。近所の二十代の青年は、白髪交じりの壮年の男に変貌していた。知り合いの、初めての子供をお腹に授かった女性は、玄関前で呆然とした顔で誰か子供と手を繋いでいた。お腹は既に平らになっていた。今まで見たこともないのに、まるで以前から住んでいたかのような風体の夫婦も見かけた。
 玄関が開け放たれている家の一つにふらりと入った。中はまるで数十年来の廃墟のように荒れ果てていた。壁際に落ちていた埃まみれのカレンダーを拾い上げると、それは当時から二十六年後の年のものだった。

 後に老人は少年に、こう教えた。宇宙は一つだけ存在するのではなくて、本当は数えきれないほどたくさんあるのだと。一つ一つの宇宙は、隣り合うものは互いにほとんどそっくりだが、どこかで微細な違いが存在する。離れた宇宙の間では、その違いは大きくなり、やがてまさに別世界とも言えるほど似つかなくなる。
 それでも普段なら、他の宇宙のことは感知できない。それぞれの宇宙は完全に並行しており、どの時点でも互いに交わることは無い。だがあの日、その原則は崩れた。空や大地にでたらめに出現したのは、別の宇宙の別の時間から切り取られた内容物だと、老人も含む複数の人間達は信じていた。厳密には、老人達がいた空間も、またどこかの宇宙の中に切り取られて投射されたはずだった。
 老人は、それがなぜ起きたのかについても、考えを述べた。この宇宙には、人間の目では観測できない暗黒の物質が存在している。誰にも見えないのにあるとされているのは、そうしないと説明のつかないことが宇宙には数多くあるからだった。その暗黒物質が、偶然この星を――少なくとも、どこかの並行宇宙のバージョンのこの星を――通過したことで、星の重力に異常が起きた。その発想の根拠は、昔彼が読んだ、恐竜の大量絶滅の原因は、暗黒物質が地核に蓄積され、膨大な熱を生み出したことによって引き起こされた地殻変動だとする学説だった。つまり、あの日起きたことも、地核の異常によって引き起こされた重力の歪みにより、時空が乱されたことによると考えようした。
 だが、その真偽を熱心に議論する人間達は、時と共に減っていった。本当に考えなければならないのは、それぞれ全く異なる時間を持つ空間に無数に分かたれてしまった大地で、どう生き延びるかだった。ただ、人々はあの出来事に何か呼び名を必要とした。いくつかの世界では、それは『大交錯』と呼ばれた。

 老人が、二十六年後の廃墟のある世界に足を踏み入れていたように、それぞれの世界の境界は、人間には簡単に踏み越えられた。ある時間と空間に属していたはずの物質は、容易に別の世界へと移動するようになった。そして、この現象はいつまでも終わることは無かった。
『大交錯』の後、人類は三種類に分かれた。
 ごく少数の人々は、運良く顔見知りの人間と再会できた。彼らは生き延びるために、藁にもすがる気持ちでその繋がりを保持しようとした(実際には、別の世界のバージョンの、同じ顔をしただけの「顔見知り」ということもありえたが、各々の記憶に大きな齟齬(そご)が無い限り互いにそれと気付かなかった)。
 大半の人々は、元の世界での関係性から完全に切り離された。そのうちの一部は、災厄を経た後の人間の心に芽生える連帯感からか、以前どこにいたかを問わずに手を結ぶようになった。あちこちで大小さまざまなコミュニティが、現われては消えを繰り返した。
 そして、これらのいずれにもなれなかった人間。彼らは過去から隔絶され、現在のどこにも拠り所を持てなかった。そしてその多くは、当てを決めない越境の旅に出始めた。
 
 老人は、元の家に戻って荷造りをして、猟銃を持ち出し、少年を毛布に包んで抱きかかえると、その家から去った。買い物に出かけた彼の妻の姿は、その後二度と見ることは無かった。

 

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