憎悪と賞味期限切れのケーキ

お題:「憎悪と賞味期限切れのケーキ」

 
 ハッチを開いて部屋に帰り着いた時、中に置いてあったものが半分になっていることに気付いた。出入り口の側に置いてあった靴も、傘も、俺の分しか残っていない。洗面所のタオルも、歯磨きも、コップも。廊下の物置の扉も全て開け放たれており、そこには服の掛かっていないハンガーだけがいくつも吊るされていた。
 床には物が散乱していたが、薄暗がりの中でもそれらが俺の持ち物だけであることが分かった。俺は手に持っていた食糧の入った箱を床に置き、ガスマスクを脱いで壁にかけると、電灯のスイッチを点けた。
 その時に初めて、ダイニングテーブルに彼女がいることに気付いた。顔には何の表情も浮かべておらず、ただ俺のことを見ていた。テーブルの上には、白い箱と一枚の紙が置かれていた。他にどうするべきか分からず、俺は椅子を引いて腰を下ろした。しばらく二人とも何も言わず、隣の部屋で水の浄化装置が動く音だけが聞こえてきた。
「出ていくつもりなのか」
 まず俺がそう切り出した。
 彼女は頷いた。「もちろん」
「なあ、考え直さないのか。ここを出てもどこに行くって言うんだよ。あてはあるのか? 一人で生きていけるのか?」
 彼女は溜め息をついた。
「少なくともあなたと一緒にいるよりはましだと思う」
 俺は思わず顔を俯けた。何とかして彼女を止めなければと思ったが、上手い言葉は出てこなかった。代わりにテーブルの上の物に目を向けた。
「これは何だ?」
「読んでみて」
 俺は湿気で柔らかくなっている再生紙を手に取った。色の薄い鉛筆で丁寧に彼女の文字が記されていた。紙の裏側は、先月に近隣の生存者達と食糧の交換会をやっていた時のメモ書きで、余っていた紙を彼女が使ったのだと分かった。

 この手紙を読んでいるということは、私はそのシェルターを出ることに決めたということです。ご心配なく、自分の持ち物は全部そこから持ち出しています。後のことは全てあなた自身でお願いします。
 こうしなければいけなくなった原因に、心当たりはあるはずです。こうなることはあなたも承知の上であなたも続けたんでしょうから、私を責めないでください。今後あなたがどうなるかは私は知らないし、興味もありません。たとえ別れることになっていても、あなたの自業自得です。
 でも、あなたは一体どうしてあんなことをしたの? 私があなたのパートナーとして魅力が足りなかったから? 憂鬱で辛いこの状況の中で、私達がお互いに助け合うよりも、あの女と一緒に過ごすことの方が良いと思うようになった? 私達と築いていく未来は選ぶ価値が無いと思った?
 もちろん、私自身も愚かだったと思います。世界がこんなことになっても、男は一人の人を守り続けてくれると思い込んでいたから。結局どんな時代が来ても男は変わらないんですね。
 あなたが悔やんでいるのかどうか、これを書いている時点では確かめられません。やり直したいと思っているのかどうかも。でも、もう既にあなたは時間切れです。取り戻せるチャンスはいくらでもあったはずなのに。
 
「私が出ていく前にあなたが帰ってこなかった時のために書いたの」
「なあ、俺が悪かったんだ。反省している。もうあの女とは止めにしたんだよ。お互い、話し合ってきたんだ。二人ともちょっと冷静さを欠いてた。あの女も、例の災厄の日に夫を亡くして以来、寂しかったみたいで。ちょっと親身になって話を聞いてるうちに……」
「私のことはどうなの?」
 続く言葉は出てこなくなった。
「あなた、前に言ってた。『世界がこうなってしまった以上、物は何でも腐りやすくなる。どんな物も腐る前に大切にしなくちゃ』って」俺が床に置いた食糧の箱をちらりと見た。「でも、私のことはいつまでも愛し続けるって、誓ったでしょ」
「ああ」
 俺は顔を両手で覆った。
「私も学んだの、愛だって他のものと同じように腐り始めるって。腐らないものなんてこの世に無い。あなたも私も腐っていく。あなたの愛の方が私より早く腐り始めたんでしょ」
「そんな風に言わないでくれよ。本当に、俺が悪かった。愚かだったんだ。なあ、もうこれでおしまいなのか? 俺にどうしてほしいか言ってくれ。俺の間違いを償わせてほしいんだ」
「本気でやり直したいと思ってるの?」
 俺はただ頷いた。彼女は目を閉じて、俺に対するあらゆる感情を整理しているようだった。
「私の持ち物は全て持ち出したと言ったけど、一つだけ残しておくものがある」
 テーブルの上の白い箱を見た。側面から蓋が開くようになっており、それを開けると、中から甘ったるい香りが漏れ出た。クリームの乗ったケーキだった。
「こんなケーキが手に入るのもこれが最後かもしれなかったのに。あなた、私の誕生日も遅くまで帰ってこなかった」
 その通りだった。数日前、高値で売られていた僅少な冷凍のケーキを、何とか金を出して買ったのだった。今となっては、こんな贅沢な食品を作る人はどこにも無い。それをせっかく手に入れたのに、彼女の誕生日になると、俺はあの女のシェルターに必要以上に長居してしまった。俺がようやく帰ると、彼女はケーキのことは話題にも持ち出さず、俺も忘れていた。
 箱の蓋に貼ってあったシールには、賞味期限が印字されていた。今日はその日付から二日も経っていた。
「そのケーキと同じくらい私の心は腐り始めてるってこと」
 彼女は冷たく言った。だが、その通りだとも思った。俺が放っておいたのだ。
「ねぇ、本当にやり直してみたいなら、そのケーキを残さず食べてみせて」
 思わず彼女の顔を見た。だが、冗談で言っているのではないと感じた。
「腐り出している私の心も愛してくれると言うなら、これを食べてみせて。そうしたら、私もあなたのことを考え直すから。あなたが始めたことだから、その責任を取るんでしょう」
 ケーキに乗っている果物は、ところどころ黒ずんでいるように見えた。漂ってくる甘い香りの中に、わずかに酸味がかった匂いが混じっている気がした。普通の俺ならこれを食べるという判断はしそうにない。
「……どうしてもか?」
 彼女は頷いた。「どうするか決めるのはあなた」
 初めて出会った時以来、自分の考えを曲げない女だと思っていた。それはそうだとしても、俺達は互いに惹かれるところがあったはずだった。二人ともあの頃は先のことなど考えていなかった。あの時の気持ちは、永遠に続くと思っていた節がある。
 だが、この世の全てのものは、生まれたその場から腐り出していく。例外は無いのだ。それでも、俺はまだ捨ててしまうには惜しいと思うものがある。
 俺は食器を入れてある箱からフォークを取り出すと、ケーキの皿を引き寄せた。どこから食べようかと思案した後、どこでも同じだと思って、手前からフォークを縦に刺し入れて切った。一度彼女と目が合った。それから思い切って、フォークを口へ運んだ。まだ甘い味がする。固くなり始めているが、まだ食べられないほどではない。俺は彼女に見つめられながら、ゆっくりとケーキを食べ続けた。

あとがき
最初は現代を舞台にしていましたが、どうせなら「賞味期限」というワードがよりシビアになるような舞台設定に変えてみました。

 

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