愛をください 7章(2/2ページ)

 玄関を開けて外に出ると、身を切るような夜気に身体が震えた。鍵をかけてから、他の部屋のドアの前をゆっくりと歩いて、音を立てないように階段を下りた。今まで、こんな時間に外に出かけたことは無かった。外の静けさが耳に痛かった。
 毎朝側を通ってきたカーブミラーは、暗闇だけを映していた。冷たい風が吹いてきて、私は両手を脇に挟みながら歩いていた。遠くからぼんやりと車の騒音が聞こえてくる。こんな時間になっても、交差点の信号は一人でぼうっと光っていた。
 角を曲がる度に、誰か知っている人とばったり出会って呼び止められる光景を想像する。こんな時間に出歩いている人間を誰も知らないけれど、今誰かに止められなかったら、私はこの出来事の醜い終わりまで歩き続けてしまうのだ。
 気付いた時には、もう正門の前の坂道はすぐそこにあった。どこから敷地に入ろうかということを考えた。門は全て閉まっているはずだった。テニスコートのフェンスに付いた扉が開いてたりしないかと思ったが、結局、学校に隣接する駐車場のフェンスからよじ登る方が速いという気がした。出入り口に掛けられたチェーンをまたいで越えて、一番上りやすそうなところを探した。学校の敷地側は、駐車場側よりも地面がかなり低くて、乗り越えたフェンスを下りる時に慎重になった。
 教室棟の校舎を見上げる。二年七組の教室に電気は点いていなくて、窓も開いていない。建物に入る鉄扉は全て閉じられていたようだったけれど、一か所だけ鍵がかかっていなかった。そこで靴を脱いで入って、扉の内側に靴を置き、二階へ上った。
 
 教室の戸を開けた。
 窓に一番近い列の机の上に、真奈が座っていて、後ろから智恵理に抱き締められていた。智恵理の手は、真奈の腹や腰をまさぐっていて、真奈は人形みたいに無反応だった。いつの間にか二人の背後の窓は開けられていて、冷たい空気が吹き込んでくる。
「この子は色んなことを話してくれた」智恵理が口を開いた。「あなたとの出会い、あなたへの意識の目覚め、あなたとの想い出。この子にとって、あなたがどれだけ大切な存在だったかが分かった」彼女は頬を真奈の顔に寄せて、こちらを睨んだ。「私にとっても、あなたは特別な存在だった。なぜなら、あなたは初めて私を拒絶した人だったから」
 私は少しずつ前に進み出た。「どういうこと?」
「文字通りの意味。あなただけが、私を愛することと、私に愛されることを受け入れなかった。後にも先にも、あなただけ。私はその理由を考えた。そして、ようやく分かったの」智恵理は上体を上げた。「あなたは、本当は愛なんて必要としていない」
 また私の頭は、働かなくなったみたいだった。「何、言ってるの?」
「原因は知らない。あなたの惨めで孤独な子供時代のせいかもしれないし、他のことかもしれない。でも、あなたは人から愛されていなくても、生きていかなければならなかった。そして、そのうちに気付いた、生きることに愛は必要ではないと」
「あなた、言ってたじゃない。『一人きりで生きていける人間なんて、どこにもいない』って」
「誰かと共に生きることと愛情は、関係無い。打算的な関係の方を、人間ははるかに多く持っている。脆くて壊れやすいけれど、とても容易なもの。私に愛をくれる子達は、皆何かしらの形で、打算ではない愛に飢えていた。でも、彼女達は多かれ少なかれ、その事実から目を背けていた。傷つくことを恐れて、自分は愛とは無関係であると思おうとした。そのせいで、自分自身を苦しめていたけれど。私は彼女達を、目覚めさせただけ。本来求めるべきものを求めさせただけ」彼女はいつものように笑みを浮かべていた。「でも、流石に私でも、元から愛を欲していないあなたを、目覚めさせることはできない。あなたにとって、愛情はあなたの内側には無くて、外側にしか存在しないもの。それに運良く出会えた時――」彼女は真奈の肩に手を置いて、「――その愛情をどう利用するかということしか、考えてない」
「違う!」外にも響きそうな大きな声を出していた。「そんなの考えたことなんて無い。私は真奈が好きだから側にいたの。真奈の気持ちを弄ぶようなことなんてしない!」
「本気で言っているの? もうさっきの夕方のことを忘れてしまったの?」智恵理は怪訝な表情だった。「誰かと共に生きることと愛情が、関係無いように、人を愛するという行動と、その人に対して愛情を抱いているということも、無関係。愛を感じていなくても、愛している振りをするなんて簡単。それがあなたにとって最も都合が良かった。彼女がいれば、あなたは孤独から解放された。だから、彼女の意志に関わりなく、あなたは彼女を側に留め置こうとした」
 私は言い返す言葉が見つからなかった。真奈が私を愛してくれなくなるのは、耐えられなかった。でもそれは、私も真奈を愛していたから? 智恵理の言う通り、あの愛情を打算で考えていたから?
 私は真奈を愛していなかったのに、真奈を愛したのか?
「あなたの言ってた、取引って何?」震えた声で訊いた。
 智恵理は口の端を持ち上げた。
「とてもシンプルな話。もし、あなたがこれ以降、私の進む道に干渉しないと誓うなら、彼女をまた以前のように、あなたを愛するようにしてあげられる」
 私は黙って真奈の顔を見ていた。「今まで言ってきたことと、違うんじゃない?」
「ええ。でも、できるの」智恵理は自分の唇に人差し指を当てた。「私を殺してこの子を奪おうとしても、無駄だから。今の彼女達にとって、私は最もいとしい存在になっている。私がそれを忘れさせないままこの世から消えたら、彼女達はどんなものでも埋められない喪失感を刻みつけられて、この先ずっと虚ろな人生を送ることになる。忘れさせられるのは、私だけ」自信に満ちた表情で言った。
 私は、頭を冷静に働かせることに集中した。はったりかどうかは確かめられなかった。でも、もし真実なら、私が真奈を取り戻すには、彼女に従うしかない。
 でも、そうしたら何が起きる? 私はがらんとした教室を見渡した。私一人が、愛する人を取り戻せて、それ以外の皆はどうなる? 都も舞も、他の皆もこれから彼女を愛し続けることになる? もしかしたら、一生? 私はこの皆を――智恵理はこの教室の中だけで満足しないかもしれない――もっと多くの人間を、虚ろな幸せに置き去りにできる?
「自分の欲望と、より大勢への罪悪感とを秤にかけているの?」智恵理が見透かした。「無駄なことね。結局あなたも都さんと同じ。最も望んでいる結果を遠ざけようとしても、人は諦められないの」

 私は側の机に手を突いた。「一つだけ、訊きたいの」
「何?」
「あなたは一体誰なの?」
「私の名前は、東智恵理」
「そんなこと訊いてるんじゃない」
「じゃあ何?」
 私は言葉を探した。「あなたの……目的」
 智恵理は完全な無表情で私を見ていた。
「夕実さん。この先、世界がどうなったとしても、最後まで生き延びることができるのは、誰よりも愛された人だけ。あなたもそう思うでしょう?」
 風が一際強く吹いて、はためくカーテンが音を立てた。
「私は求めたいものを求めているの。それが人間にできる最も純粋な生き方。この世には、自分でそれから離れて自分で苦しむ人の方が多いけれど」
 彼女は一歩こちらに近づいた。「あなたは、どの生き方を選ぶの?」
 この教室は静か過ぎて、自分の心臓の鼓動でどうかなってしまいそうだった。机の上に座っている真奈を見た。さっきまで俯いていたのが、今はこちらを見ている。私は彼女に近づいた。ただ困惑した表情が浮かんでいた。
 もしも、私に愛情が無いのだとしたら、この子をこんな状況に追い込んでしまったのは、私のせいだ。ただこの子を傷つけたくなかったがために、結局彼女を傷つけた。私は、この子を取り戻したい。でも、それならこの子は私といても幸せになれない。きっと、また同じ思いをすることになる。今まで私がこの子を愛していなかったなら、これからも私には愛することはできない。
 その単純な事実が、今になって私を悲しませた。
「ねぇ、あともう二つ訊きたいことができたの」
 私は智恵理に振り返った。
「あなたは、これまでもずっとこんなことを繰り返してきたの?」
「それを知ってあなたはどうするの?」
 それだけで私は理解できた。「じゃあ、もう一つ」
 私は、風が吹き込んでくる冷たい窓の前に立って、外を見た。手すりの位置が、腰の辺りにある窓だった。
「あなたは、私のことを愛してる?」
「それを、あなたが訊くことができる質問だと思っているの?」
「教えて」
 彼女は目を細めていた。「無意味な質問はやめて。あなたが私に愛をくれないのだったら、私もあなたを愛する意味が無い」そして、私との距離を縮めた。「やっぱり、私とあなたは同じ、前から思っていた通り。愛情とはすなわち、糧であり資源。私とあなたは、同じものを求めて、同じものを奪い合う。あなたにも分かった?」
 私はゆっくりと頷いた。
「うん、私もあなたも、同じだったんだ」私は微笑んだ。そして、机から下りてこちらを見る真奈の顔を見て、「だから、二人とも、周りの人を不幸にしていくだけなんだ」
 私は智恵理の両腕をがっしりと掴んだ。彼女の目はまったく動じなかった。
「だから、私達二人ともいなくなった方が、きっとあの子のためだよね」
 最後に見えたのは、こちらに手を伸ばしてくる真奈の姿で、その後は何も分からなくなった。彼女が私と智恵理のどちらを助けようとしたのかも分からない。それでも良かった。あそこは二階だったけれど、下はコンクリートの硬い地面だから、上手く行けば私の狙い通りになってくれる。

 

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