愛をください 5章 (2/2ページ)

 智恵理の取り巻きは徐々に数を増していった。昼休みになると現れる彼女の『王国』は領域を広げ、それ以外の生徒は居心地の悪さと共に、窓側へと追いやられた。今や、賑やかなのは教室の半分だけで、残りの半分は空っぽのようなものだった。その空っぽの子達は、何かがおかしいということに気付きつつも、どうしたら良いのか分からない。もたもたしている間に、智恵理に声をかけられて、どこかへと誘われていき、次の日かその次の日になれば、その取り巻きに加わっている。
 何もできることは無かった。王国の中心にいる智恵理は、クラスの視線を一身に集めているはずなのに、ふと気付けば姿を消していることがある。智恵理の最初の取り巻きになった亜樹に、彼女と一緒にいられない下校時間はどうするんだと訊いてみたことがある。次の朝に会える時を楽しみにするんだと答えていた。
「大切な人が、どこにいるかも分からない時があるなんて、変だと思わないの?」
 そう問い質しても、彼女はどこかうっとりした表情でこう言うのだった。「ちえりんは、私達を見捨てたりしないから。平気」
 これがもし、いじめのような問題だったら、責任感の強い都が勇気を出して先生に伝えていたかもしれない。でも、前から分かっている通り、これは負の問題ではないのだ。ただただ、閉鎖的で熱に浮かされたような親愛が作られているだけ。それをどう大人に知らせたら良いのか、私達には分からなかった。
 けれど、都は少しずつ動き出そうとしていた。
「本当は、こんなこと言いたくないけど」ある日のお昼、都は私と真奈を人気の無い廊下へ誘って、そう話した。「ただ……、正直言って私には気味が悪いの。この数日間で、七組の人間関係が一変したみたいになってる。智恵理ちゃんに訊いてもはぐらかしてくるし。彼女の周りにいる子、まるで夢でも見てるみたいな様子だし。本当に、急に人が変わったみたいで、怖いの」
 それには私も同感だった。
「じゃあ、どうするの?」
「まだあの子を囲う輪に入ってない子には、ただ『気を付けて』って言っておくしかない。露骨に『智恵理ちゃんと仲良くなるな』とは言えないけど、とにかく少しずつ話はしておく。何かあったら私とかに相談に来るように、とも言っておくから」
「大丈夫かな、でも……」真奈は不安げだった。
 都も目を伏せた。
「私だって、こんな風にクラスを分断するみたいな真似はしたくない。でも、やっぱり何かおかしいと思うの。何がなのかは分からないけど……」
 お昼休みの終わりが近づきつつあった。都は別れ際に、
「できたら夕実と真奈には、智恵理ちゃんのことを注意深く見ててほしい。今はまだ、理由も分からずに智恵理ちゃんを避けているに等しいけど、あの子はもしかしたら何か隠してるのかもしれないから。もちろん、あなた達本人も、気を付けてよ」
 私達は頷いた。少なくとも、私は智恵理に避けられているだろうけど。
 その日の授業が終わって、智恵理は小宮桜子のところへ動き出した。
「小宮さん、今日はこの後暇? 良かったら、一緒に帰らない?」
 桜子の視線が、一瞬だけ都の方に向いた。都と真奈と私の三人は、様子を窺っている。
「ごめん、今日は用事があって……」
「そう。……何の用事?」
「えっと、家に書き留めで荷物が届くから、留守番しないといけなくて」
 それを聞いて、智恵理は引き下がることにしたようだった。教室内に視線をさまよわせ始め、そして、ぴたりと次の狙いを定めた。
「ねぇ、内藤さん、あなたは――」
「ごめん、舞は私と一緒に駅前に寄るの」都が突然進み出て、舞の肩を背後から掴んだ。あの舞も、今ばかりはきょとんとしている。「智恵理ちゃんもついてきたいんだったら、話は別だけど。どうする?」都は智恵理を真っ直ぐ見ていた。しばらく二人の間に言葉は無かった。
「いえ、それなら良い」智恵理は微笑んで言った。「悪いわね」そして、一人で教室から立ち去った。
 私はため息をついて、都と真奈、そして舞と目を合わせた。
「都りん、私と遊びたいの?」
 彼女は少し間を置いて、「あなたの予定が無いなら……」目を泳がせながらぼそりと言った。
 舞はにっこり笑った。「ついてるねぇ。今日は私、暇だったんだ」
 私は、部活が休みの真奈と一緒に帰ろうとした、久しぶりに気を緩めて下校ができると思った。何気なく下駄箱を見て、まだ智恵理の靴が残っていることに気付いた。私達は顔を見合わせて、手分けして校舎を捜すことにした。どこにも彼女を見つけられなくて、二十分ほどして再び下駄箱に戻ると、智恵理の靴は上履きに替わっていた。

 週が明けて月曜日、智恵理の王国は、新しい取り巻きを迎えなかったようだった。朝にそれを確かめると、都と私達は、ひとまず安堵した。
「夕実ちゃん、おはよう」自分の席に座っていると、加藤優子が声をかけてきた。
「おはよう」
「あの、図書室の本の貸し出しキャンペーン、手伝ってくれて、ありがとうね」彼女が言っているのは、今月図書室が開催した、本の貸し出し数をクラス毎で競うという企画だった。私は一人で三冊一杯まで借りていた。
「ああ、気にしないで。大したことはしてないし」
「ううん、一人で三冊借りたの、このクラスだと、都ちゃんと夕実ちゃんだけだから。何か、ここ最近、このクラスの貸し出し数が急に減ってて……」智恵理の席の周りにできている人だかりに、私は目をやった。優子が黙り込んだので、彼女を見ると、やはり同じところを見ていた。
「どうしたの?」
 私が声をかけて、優子は我に返ったようだった。「ううん、何でも。それよりさ、その借りてる本、今日までだよね……」
 私は、ロッカーの中に三冊の本がしまいっぱなしであることを思い出した。前回から学習していない自分に呆れた。「ごめん、今から――」
 しかし、今回は折悪しく、中島先生が教室に入って、ホームルームの時間になった。
「じゃあ、帰りにね」優子は笑って、自分の席に戻った。智恵理の取り巻きも、元の位置に帰る。中島先生が違和感を持つ前に解散するから、先生は一向に王国の存在に気付かない。

 その日の授業の終了後、私はロッカーから本を三冊取り出した。図書当番の優子に手を振って、後で行くことを伝え、一旦教室に戻る。智恵理の姿は無かった。
「真奈はどうする? 図書室までついてく?」今日も真奈は部活は無かった。
「うーん、良いや。ここで英語のテキストやって、待ってるね」真奈は微笑んだ。
 私が借りていたのは、短いミステリー小説と、音楽についての新書、そして心理学についての本だった。最後のものは、以前「愛」という言葉が気になっていた時の名残で借りたのだった。でも、私には難しい内容だった。それによれば、人間の脳の中でドーパミンという物質が放出される時、人間は愛情を感じるらしい。ただ、そのドーパミンは、例えばお金を貰えたり、美味しいものを食べたり、人から褒められた時の嬉しさ、気持ちよさにも同じように関わっている。つまり、私達が愛情と名付けている感情も、何か報酬を得た時の気持ちよさと、結局は地続きらしい。そう言われても、私には上手く理解できなかった。
 図書室に着いた。表のドアは開け放たれていたが、中に人の気配が無かった。
 部屋に足を踏み入れる。他の生徒はいないようだった。カウンターに優子の姿は無かった。空調の音がいやに耳に大きく聞こえる。カウンターの奥の司書室へ声をかけようか迷いながら、立ち並んでいる本棚を何気なく眺めていた時、その奥に何かが動くのが見えた。優子が本を整理しているのだと思って、そこに近づくと、何か声が聞こえた気がした。
「嫌……、そんなのは嫌。ねぇ、どうしたら良いの?」
「安心して、ただ私に任せれば良いの」
 持っている本が急に何倍もの重さがあるように感じられた。私は、なぜ先週図書室の中を捜さなかったのだろうと思った。
「あなたの気持ちは私もよく分かる。否定する必要は無いの。今まで誰にも言えなくて辛かったでしょう。でも、大丈夫。誰だって誰かに愛されてなければいけないの。おかしいことじゃない。愛を受け取れない人生なんて生きる意味が無い」
「うん……」優子の声は震えていた。
「あなたは、大切なものを持っている。自分でその価値に気付いていないだけ。でもね、それは誰かと分け合うことで初めて意味があるの」
「大切なもの?」
「今に分かる。その時の喜びは、この先何にも替えがたいもの。あなたが心を開いてくれれば、それは手に入る。さあ……、優子さん、私の目を見て」
 私はそっと足を踏み出し、二人がどこにいるのか見ようとした。部屋の右端の本棚の奥、普段開くことのない非常口の前に、人影があった。次第に二人分の息遣いが耳に届くようになった。
 優子の姿は、手前の智恵理に覆い隠されてよく見えなかった。優子の顔がある辺りに、智恵理の頭が重なっていた。それらは、奇妙なリズムで同調して小刻みに動いていた。智恵理は、優子の両腕をしっかり掴んで離さなかった。
 私は、声を出すことができなかった。一歩ずつ後ずさり、側の机に本をそっと置くと、部屋を出た。階段を一つ下りると、職員室の目の前であることも気にせず、教室まで走って戻った。

 最初から全て、それが目的だったのだ。転校の初日から私に目を付けたのも、何もかも。結局、飯田亜樹がその最初の犠牲者になったのだ。
 私は、智恵理の企みの底が見えないことに戦慄した。もうクラスの八割以上が、智恵理が優子に対してしたことと同じことを経験しているのだと思うと、吐き気がこみ上げた。
 後で、真奈と都に話した。もちろん、私がかつてそうされそうだったことには触れないで。二人とも言葉を失って、立ち尽くしていた。
「もう、分からない」都は額に手を当てて、弱々しく呟いた。「私には、何が起きているのか分からない」

 

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