愛をください 5章 (1/2ページ)

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 お昼休みが来ると、教室の中では机の移動が始まる。東智恵理自身は席を動かさない。その周りに机が集まってくる。
 飯田亜樹は、智恵理の転校してくる前とその直後では、たいていの場合、佐々木瀬奈達と大きな声で笑いながらお昼を食べていた。今では、机を九十度回転させて智恵理の方を向くと、昼休みの終わりまで、脇目も振らなくなる。
 吉田紗江も、最初は半ば義務的に智恵理と一緒にお昼を食べていたと思ったのだけど、もうお昼休みの時間が近づくだけで、そわそわするようになっている。
 亜樹の前方に座る藤村佳菜と大久保沙紀は、元々二人で席を向け合って食べていて、智恵理達のグループの会話に時々付き合ってやる程度だった。今は、その二人ともがその輪に加わっている。
 次の日になると、そこに一人分の席が増えていた。田崎美佐という、美術部の物静かな女の子で、昨日まで全く智恵理と接点は無いと言って良かった。それが、いつの間にか智恵理を囲む席に加わって、すっかり溶け込んでいる。
 智恵理はお弁当を自分で作らず、いつも購買部で買ったものを食べている。サンドウィッチとクロワッサン、クリームパンを机の上に並べ、他の人よりも先に食べ終える。この前ファストフード店で聞いた会話を考えると、もしかしたらそれでもまだ足りないのではないかという気がしたが、それは当たっていた。「ちえりん、これあげる!」智恵理を囲む子が、自分の食べ物を差し出す。智恵理がそれを口に入れ、「とっても美味しいわ」と褒めると、あげた方はまるで人生で一番嬉しい合格発表を貰ったみたいに喜ぶ。そして、我も我もと他の子が食べ物を差し出す。
 お昼休みの間だけではなかった。朝、智恵理が教室に入ると、彼女達は待ち構えていたように、一人ずつ彼女とハグをする。体育の時間などで自由なグループ分けをする時は、彼女達は智恵理と同じ班に入りたがる。休み時間では、智恵理の話し相手になろうとする。智恵理は、自分の取り巻きを作りつつあった。

 私達は、日に日に増していく違和感に耐えながら、過ごさなければならなかった。誰かがいつか口に出すだろうと思うが、誰もそうしようとしない。仲良くなったこと自体に、理由なんて訊けるわけないからだ。きっと、問い質されても、智恵理は何食わぬ顔でこう答えるだろう。「私達は気が合うから、すぐに仲良くなれたの。それがどこかおかしい?」
 取り巻きを作ることが悪いかという話じゃない。ただ、何かが明らかに異常なのだ。周りの女の子の、何か尋常ではないものを基にした熱意。輪が作り上げられ、広がっていく速さ。
『私はね、愛が欲しいの』智恵理が、皆の目の前で抱擁をしている時、私はその言葉を思い出した。『私はずっと愛に囲まれてきた。愛を求めてきたから。そして、愛を与えてくれる人々に、私もまた愛を与えてきたから。それだけ。それだけで、人は私と分かちがたく結びつくようになれる。だからね、私はいつでも愛が欲しい』
 本当のところは、この違和感は私と無関係のはずだった。私が首を突っ込む義務は無いはずだった。でも、あの金曜日、私に押しのけられた智恵理が見せたあの表情が、脳裏をかすめる。取り巻きの子達は、あの表情を見たことがあるのだろうか。あれを見てもなお、智恵理と付き合いたいと思うようになるのだろうか。
 智恵理は、何かを隠しているはずだ、彼女以外の、私達全員に対して。

 水曜日、体育の授業が終わった後、私は智恵理と着替えのタイミングを合わせていた。彼女は、クラスメイトの半分が更衣室を出て行った後に、美佐と連れ立ってそれに続こうとした。私は一度真奈に視線を送った。彼女には私の心積もりを教えてあるけれど、不安げな表情だった。私は更衣室のドアをくぐって、二人を追った。
「ちょっと、智恵理ちゃん」
 二人は廊下の途中で足を止めて、振り返った。美佐はきょとんとした顔をして、智恵理の表情には色が無い。
「何か用、夕実さん?」
「美佐ちゃん、先に行っててもらって良い? ちょっと、智恵理ちゃんと二人で話したいんだ」
 すると、美佐は、
「えぇっ。後じゃダメ? 私、智恵理ちゃんと一緒にいたいよ」ごく自然な動作で智恵理の腕にしっかり抱き着いた。
「ごめん、どうしても。お願い」
 智恵理はしばらく私を見てから、「美佐さん、先に教室で待ってて。私もお話が聞きたい」
 美佐は、まるで飼い主に突き放された子犬のような目になった。「分かった……。夕実ちゃん、なるべく、早く終わらせてね?」そして、力無い足取りでその場を去っていった。
「こっちに来て」私は、来た道を少し引き返して、教室棟とは反対の方向へ智恵理を促した。授業で使われていない、生物の実験室の前で話すことにした。
「智恵理ちゃんは、最近友達が増えたみたいだね」
「ええ、そうね。皆優しくて、可愛い子ばかり」いつものように微笑んで答えた。
「皆から好かれてるよね。私の知っている限り、美佐ちゃんは冗談でも誰かにくっついたりしない、大人しい子だったはずなんだけど」
「私と美佐さんは、もう大切な親友。彼女は私と出会えたことに、大きな喜びを感じているの。だから、私とくっつきたくてしょうがないのね」
 沈黙があった。更衣室から残りのクラスメイトが出てくる賑やかな声が聞こえて、遠ざかっていった。
 私は唇を舐めた。「皆に何をしたの?」
「何を?」
「亜樹ちゃんや紗江ちゃん、佳菜ちゃん、沙紀ちゃん、それに美佐ちゃん……、正直、皆人が変わったみたいになってる。それも、この数日間で急に。私達が気付かないと思う?」 
「だからどうしたの?」智恵理の顔から笑みが消えている。「人は、望むと望まざるとに関わらず、誰かと出会う。そして、相手のことを受け入れる時、その人は、相手に出会う前とは別人になっている。なぜなら、それまでの自分という枠組みに、他者を受け入れる余地なんて無いから。ゆえに人は変わるの、たとえ本人が気付いていなくても。それは、自然なこと。おかしくない。あなたも分かるでしょう、自分のことを考えれば」
 詭弁だと思うべきだった。でも、彼女の目を直視して、言葉に耳を傾けていると、なぜか私の頭は痺れてきて、上手く働かなくなる。「でも、変だよ。美佐ちゃんとあなたが話しているところ、前は少しも見たこと無かったよ」
「あなたが見たこと無いだけでしょう?」
 それ以上言葉が出てこなかった。
「訊きたかったのは、それだけ?」彼女はそう言うと、間もなく踵を返して歩き出した。そして、角を曲がる手前で立ち止まった。
「あなたは、私を拒絶した」
その声は、体育の後で温まっていたはずの私の背中に、冷たいものを走らせた。
「あなたはもう私に興味を持つべき理由は無いはず、違う? それとも……」もう一度こちらを見て、口の端を上げた。「まだあなたは、私に期待しているの?」
 またあの温もり、あの距離。智恵理が去った後も、私はその場に縛り付けられたみたいに動けなかった。心臓が早鐘を打って、めまいがした。少し落ち着くと、制服のポケットからリップクリームを取り出して塗った。まったく味が感じられなかった。
 廊下をふらふらと歩きだしてすぐに、
「夕実ちゃん!」真奈が駆け寄ってくるのが見えた。「顔色悪いよ……。大丈夫?」
「大丈夫」昔からの口癖のように言った。「私は大丈夫」
 そして、その場で真奈を抱き締めた。真奈もそれに応えてくれた。

 冷静になると、『あなたが見たこと無いだけ』という言葉が心に引っかかった。
 帰りのホームルームが終わるまでに、私は予め鞄に教科書類を詰めておいて、用意を済ませていた。中島先生への礼が終わると、私は智恵理よりも先に教室を出て、下駄箱へ向かう。教室から智恵理の後をついていくようにしなかったのは、智恵理が私を警戒しているかもしれなかったからだ。
 靴を履き替えると、正門を出て坂を下り、交差点で普段の通学路とは正反対の方向に少し歩いて、自動販売機の側に立った。この場所は、車で迎えに来る家族を生徒が待つのによく使われる所だから、ここに突っ立っていても変ではない。誰も私を迎えに来ないけれど。
 生徒達が続々と近くの交差点に現れ、各々の方向に歩き去って行くが、智恵理と、そしておそらく一緒に歩いている彼女の新たな『親友』の姿は見えなかった。私は何度も時計を見て、スマートフォンで時間を潰している振りをした。十分以上が経った。今日に限って、別の門から帰ったのではないかと思い始めたところに、遠くからでもすぐに見分けられるあの長髪が現われた。隣にはやはり誰かが歩いていて、それが沢田里枝だと気付いた。クラスの名簿順で私の一つ前の子。週に何度も私と話している。
 私はつい早歩きになりそうになるのを抑えつつ、二人を常に視界に収めながら、慎重に同じ道を歩いた。二人の声こそ聞こえてこないけれど、どんな様子で歩いているかは分かる。智恵理が里枝より半歩先を歩いていて、里枝は適切な距離を空けようとしているようだった。会話している時間より、前を向いて歩いている時間の方が長かった。私が初めて智恵理と一緒に下校した時と似ている、と思った。
 その時、ふいに智恵理達は角を右に曲がった。慌てて私は走って同じ角を曲がる。入り組んだ住宅街に通じる道で、二人の姿は見えなかった。もう少し走ると、左手の一軒家とアパートの間の狭い道に智恵理達がいるのを見つけて、歩みを遅くしかけた。しかし、またしても別の路地に入られて、私は少し苛立った。そこに辿り着いて歩くと、さっきまで歩いていた表通りに近い丁字路に突き当たったが、左と右のどちらに曲がったのか、見当も付かなかった。その後、日が暮れても私は二人を見つけ出すことはできなかった。
 次の日、里枝は私よりも早く教室に来ていた。頬杖をついて、周りに注意を払わず、何も書かれていない黒板をぼーっと見ていた。智恵理が入ってくるのを見つけると、立ち上がって、わざわざ彼女の側まで歩いていって挨拶した。彼女に声をかけられると、それまで無気力そのものだった表情がにわかに輝いた。ほんのりと頬が赤くなっていた。そして、抱擁を交わした。私は力なく椅子に腰を落とすしか無かった。
 世界史の移動教室では、名簿順に席が決まっていて、里枝が私の前に座った。智恵理がその教室にいないことと、私達の席が教室の後ろの方なのを良いことに、先生が板書している間、私は都からプレゼントされた手帳の一部をちぎって、それを里枝に渡した。紙片には、〈昨日、智恵理ちゃんと一緒に帰ってたよね。ちょっと訊いて良い?〉と書いた。間もなく里枝は私にそれを返した。
〈何?〉緑のインクでそれだけ書かれていた。
 別の紙片に、〈智恵理ちゃんとどこに行ってたか、教えてくれる?〉と書いて、またそれを渡す。先ほどよりも間を置いて、〈言いたくない……。何で?〉と返ってきた。椅子の座り心地が急に悪くなったかのように、里枝は座り直した。
 酷なことをしているという自覚はある。でも、これは里枝達のためにもなるはずだと信じた。〈最近、智恵理ちゃんの周りの子の様子がおかしいの。智恵理ちゃんのことしか頭に無いみたいで……。その理由を知りたいの〉
〈おかしくなんかないよ。私はただ智恵理ちゃんの側にいたいだけ……〉
 私は少し動揺した。
〈里枝ちゃんは智恵理ちゃんのこと、どう思ってる?〉
〈お願い、もう放っておいて……〉字はどんどん小さくなっていた。いつものテニス部所属の快活さはどうしたんだと言いたくなったけれど、里枝はもう机にタオルを敷いて突っ伏してしまった。
 授業が終わった後で、私は「ごめんね……、ありがとう」と彼女に囁いて、立ち去った。

 

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