愛をください 4章 (1/2ページ)

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 土曜日の午前中に、アパートに荷物が届いた。大きな段ボール箱の中に、新品のシャツや下着、タオルなどの入った袋と、乾麺やインスタント味噌汁、醤油、砂糖、麦茶のパックといった食料品をくるんだ新聞紙が入っていた。私は電話をかけながら、中身を一つ一つ確かめた。
「もしもし、宏子叔母さん? 今大丈夫?」
 電話の向こうの叔母さんは、いつもと同じように温かい声だった。
「荷物届いたよ。ありがとね、助かった。あ、でも、お醤油はちょっと前に買ったばかりだったけどね。もうすぐ荷物が届くってこと忘れてて……。ううん、でも、ありがとう」
 叔母さんは月に二度、こうして荷物を送ってくれる。学費や下宿の家賃、携帯電話料金などの支払いも、ローンに助けられている分以外は、全て叔母さんがやってくれている。私自身は、アルバイトをしてでも、叔母さんにかかる迷惑を減らしたいと思っているけれど、学校では厳しく禁止されている。だから、私にできることは、ただ毎日健康に過ごして、勉強することだけだった。叔母さんが、私の勉強したいという意志を応援してくれるのだから。
「うん……、ありがとう。昨日も学校で色んな人に祝ってもらっちゃった。良いの、気にしないでよ。叔母さんも忙しいんだから、仕方ないよ」段ボールとは別に、冷凍された一人分のケーキが入った箱も届いていた。私はそれを解凍するために冷蔵庫にしまう。
「風邪はひいてないよ、大丈夫」夕べはあれだけ長い間外にいたけれど。「叔母さんは元気? うん、そっか。叔母さんも気を付けてね。……年末は、クリスマスに友達との予定が入るかもしれないから、多分それ以降かな。うん」
話を終えて、電話を切る前に、ふと言いたいことができた。
「あの、いつもありがとう、宏子叔母さん。叔母さんのおかげで、私は頑張れるよ。……え? 何でも無いって、でも言いたくなったの。うん……、うん。じゃあね」
荷物をしまい終えると、一息入れたくて、ベッドに寝転んだ。通学鞄に手を伸ばして、そこから真奈のくれたイヤホンを取り出し、それで音楽を聴いた。これまで何度も聴いてきた曲が、全く違うものに聞こえるほどに、音の幅が広くて、魅了された。私は満たされた気持ちだった。

 月曜日の朝、全く新しい一日が始まるということは無かった。いつもと変わらず洗面所の水は冷たいし、テレビはいつもと同じような番組を流している。高崎真奈も、いつもの標識の下で待っている。何かが急に変わるわけじゃない。変わったのは、私達が互いのことをどう思うようになったかだけ。
 私達は、何を言ったら良いか分からず、お互いを見つめて黙っていた。そのうち堪えきれなくなって、二人とも笑い出した。
「何か、変だね」真奈が言った。
「うん、変」
「別に、何かしないといけないわけじゃないよね? 友達以上になるって言ったって」
「まだ私達、友達以上らしいこと、何もしてないじゃん」私は苦笑いした。
「うーん、分かんないや。とりあえず、行こ?」
そして、いつもと同じように歩き出した。何も特別なことはない。今まで反復してきたことを、また繰り返すだけでも良い。
そう思ったら、真奈が歩きながら、「あ」と声を出した。
「何?」
 少しだけ、真奈の顔が紅をさしていた。目線を下ろすと、真奈がカーディガンの袖口から白い手を覗かせて、私に差し出していた。
私の顔まで、真奈のそれと同じ色になりそうだったが、私は心を決めてその手を握った。
「真奈の手、冷えてる」私は呟いた。
「夕実ちゃんは、温かいね」
そのまま離すタイミングが分からず、青信号が点滅している横断歩道を走る時も、私達は手を繋いでいた。

 クラスの皆にはもちろん内緒だった。学校の中では、これまで通りに過ごす。必要以上にくっつかなければ大丈夫のはずと真奈は言ったが、今からそんなことがあるのかどうか分からなかった。
教室に入って、私達は別れて各々の席に向かい、クラスメイトと挨拶を交わす。何も難しいことは無い。
視界の端で、智恵理が教室の戸を開けて入ってくるのが見えた。私は唾を飲んで、頭からあの日の記憶を閉め出そうとした。そのまま彼女は、静かに自分の席に腰掛けようとした。
「ちえりん!」
それまで机に気だるげに突っ伏していた亜樹が、急に身を起こして立ち上がると、智恵理に歩み寄ってハグをした。智恵理は落ち着いた微笑みを崩さなかった。
「おはよう、亜樹さん。会いたかったわ」
「あたしも……、会いたかった」
私は、鞄から教科書を取り出す手を思わず止めてしまった。周りを見ると、他の何人かも亜樹の突然の挙動に気を取られたようだった。私が座っている所からは、亜樹がどんな表情をしているのかは分からなかったが、その声には、どこか潤んでいるところがあった。
「何ー? お前らっていつの間にそんな仲になったー?」冷やかすような声を飛ばしたのは、窓側の机の上に座っていた佐々木瀬奈だった。
「良いだろー? ちえりんとあたしは超仲良しなんだぞー」亜樹は腕を智恵理の首に回して、これ見よがしにその肩に頭を乗せた。智恵理が誰かにこんなことをされている様は、今まで見たことが無い。
「へえー。そりゃ良かったじゃん。もうあたしと話すの飽きたってことか」瀬奈が言った。
「そうは言ってないだろ。瀬奈もちえりんと話そうよ」
 瀬奈は鼻を鳴らして、「はいはい、また今度な」と言うと、手元の携帯に目を落とした。
 舞が教室に入ってきて、智恵理達をからかいはじめたので、ようやく亜樹は智恵理から離れた。それまでの間ずっと、智恵理は同じように微笑んでいた。
「あんな風に堂々とべったりする方が、むしろ自然なのかな」と、後で真奈が話していた。「ていうか……、あの二人ももしかしたらデキてるのかな? 何か知ってる?」
「ううん、何も。まあ、前から仲良かったとは思ってたけど。でも、今日になって急に……、って感じはした」私は、真奈が何かを考えている顔を見て、「とりあえず、私達は人前であれはやらないからね」と釘を刺した。
「分かってるって。冗談だよ」と笑って、こう囁いた。「秘密にするんだもんね、私達の」

 公民の授業は、テストまで間もなくという頃になって、教科書の新しい単元に突入していた。そこもしっかりテスト範囲に含むというのが、石田先生の容赦のないところだった。
「教科書五十六ページ、上から十行目、いや十一行目か。何か財やサービスを受け取りたかったら、それ相応の対価を支払う、というのは普通だな。そういうことができるのは、その財、サービスとその利用者の関係が一対一で分かりやすい時といえる。しかし、世の中には、多くの人に提供される可能性がある財やサービスもある。もしも救急車を呼ぶのに、金を払わないといけないとなったら、皆困るな? どうしたら良いか。仮に、救急車の費用を、市民から善意の寄付で募ることにしよう。そうしたら、寄付した人達も含め、市民全体が救急車を使えるようになる。ということは、寄付をしなくても救急車を使える人が出てくるわけだ。そういう人のことを――この十七行目の鍵カッコ――フリーライダー、ただ乗り者、と呼ぶ」
 石田先生の授業のテンポは、いつもより速く、私はノートを取ることに忙しかった。
「フリーライダーは、要するにおいしいところだけ持っていって、楽する存在だ。自分が支払うコストはゼロで、便益を最大化する。ある意味では賢い生き方だ。本当は誰だってそうしたい。しかし、世の中には、自分に得が無くてもコストを払って良いと思う人もいる。宿題をやってない友達に、自分のを写させた、そういう経験ある奴いるか?」先生は教室を見回して、にやりと笑った。「社会は全部が損得のやり取り、つまり市場経済的な仕組みで成り立っているわけではなく、このように、ある意味で不合理な感情によってきちんと動いてる部分もある。ところが、フリーライダーはその善意に付け込む。もちろん、そんな人達が増えたら、堪ったもんじゃないな。だから社会は、彼らを排除する必要がある。きちんと罰せられなかったら、俺も俺もとどんどん社会にフリーライダーが増えてしまうな。だから……」ここで間を置いた。「誰かに宿題写させてと頼まれても、今度からきちんと断ってやれよ」教室に短い笑いが起きた。それから授業は、市場経済によっては供給過少になる財やサービスを成立させるための税金などの制度についての話に移った。
 授業が終わった後の休み時間、トイレの洗面所で手を洗い、鏡を覗き込んでいたら、私の背後を智恵理が通るのが見えた。智恵理は隣の蛇口を使い、手を洗い始めた。
「ねぇ、夕実さん」
「何?」私の片足はトイレの出口に向いていた。
「あなたは、世界は時を経るにつれて、複雑になっていくと思う? それとも、単純になっていくと思う?」
 私は、鏡に映っている、智恵理の黒い瞳を見ていた。
「ごめん、何が訊きたいの?」
 智恵理も鏡越しに私を見て、そして微笑んだ。「いえ、今のは忘れて。ただ訊いてみただけ」
 私はそれ以上は何も言わず、トイレから出て行った。

 

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