愛をください 3章 (1/2ページ)

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 次の日の朝に寝覚めた時、昨日あったことが夢かどうか区別が付かなくなれば良いのにと期待したが、背中や腰を抱き締められた時の温もりはすぐに蘇ってきた。今となっては、智恵理も私自身も何をしようとしていたのか分からない。時間が経っても、心は落ち着かなかった。何より嫌だったのは、あの時私は意志を持って彼女を拒絶したはずなのに、今になると、自分が求めてやまなかったものを自ら棒に振ったかのような、虚脱感があることだった。そんな感情はあるはずが無かった。あのまま彼女を受け入れていたら、どうなっていたか分からないのに。なのに、どうしてまだ私はあの期待の感覚を覚えているのだろう。
 不安もあった。私の中で小さくくすぶっていたそれを、彼女は言葉巧みに煽り立てた。私は友達に怯えるべきじゃない。でも、その不安は、かつてのようにまた私の思考を捕らえて離さないようになった。
 月曜日、私は重い足取りで、カーブミラーの所に向かった。私の表情に暗さを見てとったのか、真奈の「おはよう」という声も控えめだった。
「どうか、したの?」
「ううん、大丈夫。ちょっと寝不足気味」
 私は笑ってみせた。
「そう……」真奈は私の顔を、伏し目がちに見ていた。「えっと。無理、しないでね、夕実ちゃん」
「ありがとう」真奈の忠告に耳を傾けていたら、先週はあんなことにはならなかったかもしれないと思った。それから二人で歩き始めたが、その朝はいつになく会話が弾まなかった。
 教室に智恵理が入ってくるのを見たとき、私の身体は人知れず強張っていた。彼女はこちらを見ていない。いつものように、周りの席の子と挨拶を交わしている。智恵理も何も無い振りをしているのだろうが、それはおそらく私よりも自然だった。
 三限目の移動教室の授業が終わって、用具を片付けていると、近くに誰かが寄ってくる気配があった。思わず顔を上げたが、その途中でそれが智恵理であることに気付いた。教室の出口に向かう途中で、何気なく私の近くを通ったという風だった。私を見て、微笑んでいる。あの日、あの部屋で私に押しのけられた後の表情との落差が、私を当惑させる。
「どうしたの、ちえりん、ゆーみん?」誰かが私達を呼んだ。舞の作ったあだ名は、すっかりクラスに定着していた。
「ううん、何でも無い」智恵理は私から目を離すと、そのまま離れていった。藤村佳菜と大久保沙紀という弓道部コンビと談笑しながら、部屋を出ていく。
 近くの席にいた加藤優子が、不思議そうな顔で一部始終を見ていた。「東さんと何かあったの?」
「ううん、別に何も」そう答えるしかなかった。「行こう」
 いつかはまた智恵理と話さなければならないと思った。元はといえば、これは彼女が始めたことであって、私だけでは終わらせられない。でも、彼女に話を切り出すには、勇気が足りなかった。私が部屋を逃げ出した後に、彼女が何を思っていたのかを耳にすることを、私は恐れてしまっていた。
 だから、決心がついて機会が来るまでは、この胸の内の不快な不安と緊張は、誰にも話せないまま持ち続けるしかなかった。

 下校時間が来ると、私は鞄を持ってすぐに席を立った。「帰ろう、真奈」
 流石にまた智恵理が下駄箱で待っているということは無かったが、それを確かめると少し安心することができた。真奈に心配をかけないように、私はいつも通りの調子で振る舞う。「明日の数学Ⅱ、課題提出だったよね。真奈はもう終わった?」
「うーん、もうすぐ終わる、かな……」
 その答え方には、どこか上の空のような響きがあった。真奈の顔を見ると、物思いをしているみたいに無表情だった。
 ふと思えば、今日は特に口数が少ないような気がした。笑顔にも、どこかぎこちないところがあった。まだ朝の私の様子のこと、あるいは先週のことを気にかけているのかとも思ったが、それ以前に、私と目が合うのを避けようとしているようだった。それは周囲の人を拒絶しようとしているというよりも、何か緊張や不安のために神経質になっていると見る方が合っている気がした。自分のことで手一杯で、他の人にまで気が回らないというような。
 ふと、今朝の私もこんな風に彼女に見えていたんだろうか、と思った。
「真奈、どうかしたの?」
 いつもの場所で別れる時、思い切って尋ねた、今朝真奈がそうしたように。その時ばかりは、彼女も顔を上げて私の顔を見た。
「ううん、何でも無いよ。大丈夫」
 それは予想していた答えだったが、その目は違うことを言っているようだった。
「いつも、真奈は私のこと心配してくれるけどさ」気付くと私はそう話していた。「私だって真奈のこと、心配だよ」
 真奈は黙っていた。
「私に話せないようなことだったら、無理しなくて良いけどさ。でも……、勉強以外の相談だって、私にしても良いんだよ」
 私が言えたことか、と心の中で責める声があった。本当は私は誰に対しても不安を抱いているくせに――目の前にいる親友にさえ。智恵理の言葉が耳に聞こえた。『それらがいつか、あなたの側から離れていく時のことを、考えたことはある?』
 真奈は、何かを堪えるように、口を結んで、目を細めていた。
「夕実ちゃん、ありがとう。凄く、嬉しい」そう言いながら顔を俯けた。再び上げた時に、目と頬が赤くなっていた。「話したいこと、あるんだ、夕実ちゃんに。でも、今は勇気が無いんだ。だから……、その時までは気付かない振り、してくれないかな?」
 奇妙な頼み事だったけど、今話せるのがそれだけなら、仕方なかった。
「分かった」私は頷いた。「じゃあ、待ってるね」
 それから私達は別れた。
 やっぱり、私には薄情な真似なんてできなかった。私には、この友情が大切なのだ。親友に見捨てられないかどうかという不安以前に、私が彼女を見捨てるのが耐えられない。たとえ私の日々が不安定なもので出来ていて、それが明日には崩れ去るとしても、私は最後の瞬間までそれを必要とし続ける。
 望むなら、ずっとそれが続いてほしい。真奈にはずっと側にいてほしいし、私も側にいたい。そこでまた智恵理の言葉に突き当たる。『不変のものは、あなたを裏切らない、永遠に』
 彼女が言っていたことは正しいのだろうか。それは、私の意識をかき乱していく。考えようとしてみても答えは出せなかったが、それでも考えることをやめられない。言葉は、まるで病のように私にまとわりついた。

 しばらくの間、私は自分の暗い気分と付き合わなければならなかった。真奈は一見普段通りだったが、ふとするとやはりぼんやりした無表情になっている。智恵理は私に対して何も行動を起こさなかった。また以前のように、私に注意を払わない状態が続いている。
 私は「愛」という言葉について考えることが多くなった。以前なら気にも留めなかったような広告のキャッチコピーや歌の歌詞に、耳ざとく反応するようになった。私一人の頭では智恵理の語ったことを理解できなかったから、私以外の言葉に頼ろうと思った。時々我に返っては、自分の行動に呆れもした。
 だんだんと迫ってくる中間テストへの対策もしなければいけなかった。家で勉強する時は、息抜きとしてスマートフォンでネット上の動画を見るのが、ささやかな楽しみだった。主に見るのは音楽関連の動画だ。公式のプロモーションビデオや、ライブの映像、または、誰かがひっそりアップする原曲の音源。馴染み深いアーティストの曲を聴くのは楽しいし、時には気分に任せて、「おすすめ」の欄に表示される未知の動画を試してみる。携帯電話には一か月の通信容量に制限があるから、あまり一日にたくさんは見られないけれど。
 最近よく聴くのは、イギリスのシンガーソングライターの曲の動画だった。胸に迫るようなメロディと、熱のこもった歌声が好きだった。歌詞は全部は分からないけれど、タイトルはシンプルで、訳すと「愛をください」という程度の意味だった。以前なら、直球な題名だと思うだけだったかもしれない。でも、実際に聴いてみたら、こういう曲こそ自分が聴くべきだったんだとさえ思えた。
「愛が欲しい」と智恵理が言い放った時のことを思い出す。私でも、愛の求め方は一つではないということは理解できる。さりげない機会を待っている人も、もっとあからさまに表現する人もいる。
 私自身は? 私にはまだ分からないことが多すぎる。愛情なんて、直に見たことも無いのに、言葉を聴いただけで分かったと確信することはできないはずだ。私にそれが分かる日なんて来るんだろうか。
 結局、ついつい曲を聴き過ぎてしまって、その後の勉強に手が付かなかった。

 炊飯器のセットをして、歯磨きも終えて、床に就こうとすると、ちょうど金曜日に日付が変わる頃だった。スマートフォンにメッセージが一斉に何件か届いた。クラスの内外の友達――舞や真奈も含めて――から、可愛らしい絵柄のスタンプなどが送られている。内容は皆同じ。〈お誕生日おめでとう!〉一人一人にお礼の返信を送ったら、それだけで十分以上かかってしまった。ようやく眠ろうとする時、よりによってあの日の一週間後とは、と思った。
 朝になって、いつもの待ち合わせ場所に向かう。「おはよう、真奈」私から先に声をかけた。
「おはよう」真奈は照れたように笑った。「夕実ちゃん、これは何でしょう?」真奈は、後ろ手に隠し持っていたものを私に差し出した。手の平より少し大きいくらいの細長い箱だった。白い紙に包装されていて、角の一か所に赤色の小さなリボンが留めてある。
「さぁ何でしょう。開けていい?」真奈が頷いたので、私は一方の端から箱の包装を解いて、中身を見た。それは新品のイヤホンだった。全体的に黒色で落ち着いているけど、カナル型のボディの外側にラメ入りのピンク色のリングがはまっている。
「かわいい」思わず呟いていた。私が普段使っている、千円もしない白色の地味なものとは比べられない。お店でこういうイヤホンを売っているのを見かけては、欲しいと感じながらも、自分がつけても似合わないと思うことにしていた。
「去年はマフラーをあげたから、今年はどうしようかな、って思ったんだけど。夕実ちゃん、音楽好きだからさ。どう、かな……」
「凄いかわいい」率直に答えた。「ほんとは、前から欲しかったんだ。どうして分かったの?」
「分かってたんじゃないよ。ただ、夕実ちゃんそういうの似合いそうって思ったから……」
 私のために、ということが改めて意識に上った。店に足を運んで、多すぎる種類の中からどれが良いか選んで、店の人に勇気を出して包装を頼んだか、あるいは自分でやったんだ。
 つい、私なんかのために、と考えそうになっている。
「ありがとう、真奈。大切にするね」
 真奈の笑顔は優しかった。「うん! お誕生日おめでとう、夕実ちゃん!」
 そして、プレゼントを丁寧に鞄にしまうと、二人で歩き出した。真奈の足取りは、いつもよりもどこか軽やかに見えた。ふと、月曜日のことを思い出した。あの時、『気付かない振り』をしてと言ったのは、今日のことだったんだろうか。でも、これは去年もやっていることだし、サプライズにはならないはずだ。
「夕実ちゃん、今日の帰りって、何か用事ある?」真奈が先に口を開いた。
「ううん、何も無いけど。どうして?」
「良かったらさ、誕生日記念に、どこか遊びに行かない? 私は今日は部活無いんだ」
 私は困惑して笑った。「プレゼントも貰ったのに……。でも、良いよ。真奈が言うんなら。行こう」
 真奈は微笑んだまま、顔を俯けた。「ありがとう、夕実ちゃん」

 

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