愛をください 2章 (2/2ページ)

 次の日の朝に真奈と会うと、私は智恵理と一緒に下校したことを話した。私の家の事情を打ち明けたということを言うと、真奈はとても驚いていた。
 真奈は既に私の過去のことは知っている。それどころか、私が学校で初めてそれを打ち明けた相手が、真奈だった。彼女は受け入れてくれた。困惑して身を引くことも、過度に同情することもなく、ただ私を理解してくれた。まだ一年生で耐えがたい疎外感と不安を抱いていた頃の私にとって、それは何よりも救われた出来事だった。それ以来、真奈は私の側にいてくれる。
「でも、夕実ちゃんもどうして話しちゃったの?」真奈は少し眉をひそめて訊いた。
「あまりにもしつこかったから……。いっそ話しちゃった方が良いと思って」
「うーん……」
 その朝、真奈には笑顔が少なかった。
 教室に着き、ホームルームの前に真奈とお手洗いに行こうとすると、ちょうど智恵理が教室に入ってきた。
「おはよう、夕実さん、高崎さん」いつもの丁寧な笑顔だった。真奈をちらりと見ると、瞳には戸惑いと不安の色が浮かんでいた。とにかく挨拶を返したが、それ以上は何も言わずに通り過ぎた。
 休み時間の教室では、智恵理の周りに誰かがいるのが当たり前になりつつあった。席が隣同士ということもあって、飯田亜樹と会話しているところを特によく見かけた。亜樹はどちらかというと「賑やかな」タイプの女子で、普通だったら智恵理のような子と話すよりも、例えば佐々木瀬奈のような、髪を染めては戻してを繰り返して、スカート丈は先生に注意されるような短さで、大きな声で笑うような――正直に言って私が苦手なタイプの――子とつるむことが多かった。その点、智恵理は誰とでも話を合わせられる才能があるようで、現に亜樹も彼女との会話をそれなりに楽しんでいるようだった。
 昼休み、智恵理は前の席の吉田紗江と一緒に弁当を食べている。こんな平穏な光景が、どこで愛がどうのこうのという話と繋がるのか、私には分からなかった。
 下校時間になると、真奈は警戒していた。「ねぇ、何か私、心配だよ」
「大丈夫だって、きっと。何ともないよ」
「けど、東さん、何を考えてるのか正直よく分かんないし。夕実ちゃんのこと色々聞き出したし……。何か、あんまり関わらない方が良いと思う……」
「そうかもしれないけど、真奈がそんなに気にする必要無いって」
 真奈は口を固く結んで黙ってしまった。結局、その日は既に智恵理は影も形も無かった。
 だから、真奈と一緒に帰ることができない金曜日に、智恵理が下駄箱に立っているのを見た時、彼女は私が一人になる時を待っていたのだと直観した。
「夕実さん、こんにちは。今日はこの後、時間ある?」

 例のマンションと法律事務所跡の間にある道は、今まで一、二度しか通ったことがなかった。左手には、伸びた雑草の葉が柵の隙間からはみ出している空き家が見え、右手にはシャッターの閉じた貸し倉庫がある。進めば進むほど、引き返すチャンスからは遠くなっていく。
 転校から一週間も経たずに、友達を作って自宅に招くことができる人というのはそう滅多にいないはずだが、彼女は例外のようだった。私は、どういうわけか断れなかった。人のプライバシーを根掘り葉掘り聞いておいて、自分のそれをあまり明かさない転校生が、わざわざ自宅に呼ぶというのだから、それを見てみたいという気持ちがあった。
 水曜日とは打って変わって、智恵理は言葉少なだった。私としてはありがたかったが、その分これから家で何を話すことになるのだろうとも思った。
「ここ」智恵理が足を止めた。
 そこは勾配の急な坂道の途中にある、六階建てのレンガ壁のマンションだった。少なくとも私の住んでいるところよりずっと新しそうだった。エントランスから入ると、エレベーターの近くにポストが並んでいた。その前を通り過ぎる時、その中に〈東〉の文字を探したけれど、見つからなかった。智恵理はそのまま一階を歩き続け、廊下の突き当たりの、日の当たらない一○五号室の前に立った。濃緑の玄関ドア。智恵理は鞄のポケットから鍵を取り出してそれを開けた。先に智恵理が中に入り、私はドアを手で押さえながら後に続いた。
 まず気付いたのは、玄関が空っぽだということだった。たった今智恵理が脱いだ靴以外に何も無い。備え付けの靴入れはあるが、その上に時計や花瓶や絵などが置かれていても良いのに、何一つ物がなかった。
「智恵理ちゃん、家族はどうしてるの……?」
「言ってなかった? ここに住んでるのは私だけ」そして、微笑んで付け加えた。「あなたと同じね」
 私は言葉を失ったまま、何とか靴を脱いだ。短い廊下の右手にはキッチンと冷蔵庫があり、左側には二つのドア、そして正面には曇りガラスがはめ込まれたドアがあった。智恵理は正面のドアを開けた。
 ここに住んでいるのが智恵理だけという困惑させられる事実を考慮に入れても、この居間はかなり殺風景だった。窓のカーテンは無地の白色。壁紙も白色。部屋の右の奥隅に、白色のシーツに包まれたベッドと枕。左隅にデスクと椅子。その脇に、脚が折りたたまれた小さな黒色のテーブル。手前の壁にハンガーが二つ。それ以外に何も無かった。テレビも無かった。本棚も無かった。床は灰色のカーペット貼りで、その上には何も敷かれていなかった。
 ドア口で突っ立っている私の横を智恵理が通り過ぎ、制服の上着を脱いでハンガーに掛けた。それから私を見て、「どうかした?」と訊いた。
「何だか、あんまり物が無いんだね」
「先週越してきたばかりだから」
 それにしても、段ボールの一つも部屋には無かった。これ以上に家具が増えるようには、とても見えなかった。智恵理はテーブルを取り出してその脚を開いて、床の上に置いた。それから再び私の横を通り過ぎてキッチンに行った。私は仕方なく、テーブルの側に鞄を置いて、床の上で両膝を腕で抱えて座った。
 彼女は、ペットボトルに入ったアップルジュースと、透明なプラスチックのコップ二つを持ってきて、私に振る舞った。二人とも無言でそれを飲んでいた。部屋には外の音はほとんど入ってこなかった。
「夕実さん」智恵理はコップをテーブルに置くと、口を開いた。彼女は正座していた。「水曜日の帰り道で私が話したこと、覚えている?」
「愛がどうのこうのって話?」
「そう。もうあの意味は分かった?」
 私は首を振った。
「あなたは分かっていると思ったのだけど。前に言った通り」
「なら、どういうことなの?」
 少しの間を置いてから、智恵理はこう訊いた。「あなたは今、寂しさを感じてる?」
「ううん」
「なら、あなたは毎日親しい人と共にいて、幸福と充足と安心を感じてる?」
 私はそれを自信を持って肯定していいのか、自分が迷っていることに気付いた。「私は、平気だよ、一人でいても」
「本当に?」智恵理は目を細めた。私の内側の迷いが見透かされているかのような感覚があった。「あなたは、中学を卒業した後、たった一人でこの街に引っ越してきたと言ってた。その時、元々ここに知り合いはいた?」
「いなかった」
「あなたは、私のことを『心が強い』と言った。あなたはさっき、私も新しい土地でこうして一人で生きていることを知った。でも、それはあなたも同じ。なら、私はともかく、あなたは『心が強い』はず、違う?」
 私は手元の空になったコップに視線のやり場を求めた。
「私は、強くなんかないよ。ただ、周りの人が、皆私に優しくしてくれるから……」
「つまり、あなたは周りの優しさに守られている。善意に支えられている。ねぇ……、それらがいつか、あなたの側から離れていく時のことを考えたことはある?」
 手の中のコップを強く握り締めた。
「なんで、そんなこと言うの?」
 一体私の何を知って言っているんだと思った。私が真奈といつから友達なのか知ってるのか。都や舞達とどれだけ一緒に遊んだことがあるか知ってるのか。
 けれど、言い返す言葉は出てこなかった。この怒りがどこから来たのか、私は知っていた。まさに今智恵理が言ったことへの不安だった。
 私が今の日常を手にするのに重ねてきた時間と努力のことが、一気に脳裏をよぎった。私は、皆のことを信じている。疑ってはいけないのだ。もしそうしたら、私は一歩も前に進めなくなる。
 でも、もし本当に私が信頼しきっているのなら、未だに心の奥底にあるこの緊張は何だろう。私と一緒にいる誰かが笑顔になっている時、ふとすると、その裏に何か隠れていないか私は探してしまう。そして、こう訊いてみたくなっている。あなたは、本当に私を受け入れてくれたの?
 智恵理は静かに立ち上がって、ベッドの上に腰かけた。
「気付いたでしょう、やっぱりあなたも分かっている。今まであなたを支えてきたのは不確かなもの達だったということを。昨日見えた世界の姿は昨日のものであって、今日のそれとは違うということを。でも、それを悔やむ必要は無いの。一人きりで生きていける人間なんて、どこにもいない。私だって、一人では生きていけない。誰かに側にいてほしいと願っている」彼女は、次第に暗くなっていく窓の外を見ていた。
 私は低い声で言った。「あなたは良いよね、誰とでもすぐに話ができて、仲良くなれて」
「そうかもしれない。でも、それだけじゃ足りないの」
「何が?」
 彼女は脚を組んだ。「人は自分が持っている、本当に価値あるものを、むやみに他者に見せたりはしない。でも、それを誰かと共有することに決めた時、その人達は特別な繋がりで結ばれている」
「それが、あなたの言う『愛』?」
 彼女は頷いた。「人は誰かを愛する時、自分の中の価値あるものをその人に捧げている。価値あるものは、不変であるからこそ、まさに価値を持つの。そして、不変であるものは、あなたを裏切らない、永遠に。それは、あなたを苦しみから解放してくれる」
 私は、膝を抱えている両腕の中に顔を埋めた。どこまで真実なのかは、分からない。でも、彼女の口調には、私にそれを信じさせようとする不思議な力があった。
 私も、解放されたいと思ってきた。そして、そう思う度に諦めてきた。私は、本当の意味では皆と同じになれない。欠けているからだ。普通の幸せな人が、当たり前に手にしているものが、私には無い。それでも私は、その同じになれない人々の間で生きていかなければいけない。私は、人の顔色を窺って、その人の側にいて良いのかどうか、ずっと悩み続ける。
「こっちに来て」彼女はベッドの空いた所を手で叩いた。
「どうして?」
「もっと近くで話しましょう」
 私はしばらく動かなかったが、静かにコップを置くと立ち上がって、ゆっくりと智恵理の左隣に腰を下ろした。二人で一緒に歩いた時よりも、近くに感じる。
「私とあなたは、あなたが思っているほど違わないのかもしれない。月曜日の朝から、私があなたを見ていたことに気付いてたでしょう」
「うん……」
「あれはね、私がそれを直観したから。一目見ただけで、分かったの。あなたも私も、人に同じものを求めている。だから、私達は与え合えるはず。共有できるはず」
 智恵理が今も、こちらの横顔を見つめているのを感じる。やっぱり、私は保証を求めているのかもしれない。その人の側に、私がいつまでもいていいことを認めてくれる許し。私がもう怯える必要はないという約束。今までどこにも見つからなかった。優しくしてくれた叔母さんの家にさえ、無いと思った。
「私なら与えられる。私にできるのなら、きっとあなたにもできる」
「本当に私が求めているもの、分かるの?」私は囁くような声で尋ねた。
「確かめさせて」
 智恵理の左手が私の右手に触れる。だんだんと自分の心臓の鼓動が耳に聞こえるようになった。
「私の目を見て」
 私は横を向いた。いつか教室で机の向こうから私を捉えていた両目が、今こんなにも近くを見ている。私もその瞳の黒さを見つめていると、吸い込まれるみたいだった。
「じっとしていて」
 智恵理の両腕が私を緩やかに抱いた。脚と脚、肩と肩が触れ合っていた。彼女の眼差しから目が離せなくなり、耳はまるで利かなくなっていた。
 経験したことは無いのに、これから何が起きるかを知っている。それはもうほんの十五センチ先にある。それは焦らすように同じ位置で留まって、私は時間の進みを遅く感じた。
 私の求めているものが、もうすぐ与えられるという予感があった。ここにあったんだ。彼女が与えてくれる。他の誰かじゃなくて。
 他の誰かじゃなくて? それが心に引っかかった。どうして彼女なのだ? 彼女と出会ってどれくらいの時間が経った? 彼女の言葉を信じていいのか?
 私は今、何を受け入れようとしている?
 それが触れ合いそうなところまで近づいて、その顔の上に影が差した時、私は両手で彼女の両肩をぐいと押しやった。私を抱いていた両腕はぱっと解かれ、脚が一瞬跳ねた。彼女は片手をベッドの上に突いて、じっと私を見ていた。不透明な表情だった。顔の上に、長い黒髪が一筋かかっている。
「ごめん」私は顔を逸らして、ベッドから立ち上がった。「帰る」床の上の鞄を引っ掴むと、ドアに飛びついてそれを開いた。靴を履く。私は後ろを気にしていたが、彼女がこちらまで来る気配は無かった。玄関を開けて、外の夕闇の中に出てからは、後ろを振り返るのが怖くなり、ひたすら早足で進み続けた。

 

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