愛をください 2章 (1/2ページ)

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 二日も経てば、クラスの中に一人新しい人間が増えている光景に、皆が慣れる。
 東の見た目や性格の良さは、すぐに皆に知られた。授業での受け答えにも利発なところがあって、先生やクラスの感心をさらった。誰かが、「前の学校では学年で何番くらいの成績だったの?」と尋ねたが、それには「時期によって大きく変わったから、よく覚えてないの。でも、一番を獲ったことはあるよ」と答えていた。
 彼女は皆から一目置かれる物静かな転校生という形で認識されるようになった。
 でも、私だけはどうにも東に近づきがたかった。そういう態度をとり続けたせいか、真奈を除く周囲の子から、私は転校生には興味が無い人なのだと思われかけたので、それは否定しておいて皆に合わせていた。本当のところは、私は彼女の顔を見ることにすら不安を覚えるようになってしまっていた。あの人当たりの良さを振りまく優等生的な笑顔が、次の瞬間には、全く意図の読めない表情に変わって私を見つめてくるのではないかと思うと、気が気でなかった。
 とはいえ、昨日は何とか目を合わさずに済ませることができた。不吉な気配を感じることも無かった。今日の体育の時間でやったバレーボールでは、私と東が同じチームに振り分けられたが、それでも結局何も起きなかった。彼女は、他のメンバーにするのと同様に私にボールを回したし、何か言うこともなかった。
 確かに、今のように何も起きない時間が続いていると、この言いようのない不安も実は気のせいであるかのように思えてくる。できることなら、心の全部でそう信じたかった。
 けれど、私はまだ彼女について知らないことがあると思っていた。

 今日は私が日直で、一日の授業が終わると、中島先生に提出する日誌に、必要なことを記入する。今日の時間割と、各授業の担任の名前、授業の題目、欠席者がいる場合はその氏名。最後には、簡単に自分のコメントを書く欄がある。書く内容は自由で、月並みなことを書く子もいるし、枠一杯にカラフルに彩って自分の世界を表現する子もいるし、短くウケを狙ったことを書く子もいるし、小さな字でびっしり書きまくる子もいる。何でもありだった。何人かが、パラパラ漫画風の仕掛けを描いたこともあった。ここにはクラスメイトの個性が端的に表れていて、私は密かにここを読むのを楽しみにしていた。ちなみに、昨日の日直は沢田里枝というテニス部の子で、全部の授業で居眠りをする度に起こされたことを、自虐気味に綴っていた。
 自分は何を書こうか迷った。一つ印象に残っているのは、今日の生物の授業で聞いた、カッコウの話だった。カッコウは自分で巣を作らずに、他の種類の鳥の巣に卵を産み込む。その雛は、里親自身の雛よりも先に孵り、他の卵を巣から落として、里親の世話を独り占めする。雛は、生まれた時から産みの親には会わないわけだけれど、それでも誰に教わることなく雛はそう行動して、成長すれば「カッコウ」になる。だから、雛の行動は、生まれつき遺伝子によって決められていると考えられることになる。
 嫌な話だと思った。一番ずるい生き方をすることを、まるで生まれつき宿命づけられているみたいだ。
「夕実ちゃん」
 私は日誌から顔を上げる。部活に行く前の真奈がこちらにやってきた。顔に自然と笑みがこぼれていた。
「日誌書き終わった?」
「ううん、最後何書こうかなぁ、って」
「そっかぁ。今日は何かあったかな」真奈は腕を組んで首を傾げてみせた。「うーん、今日も一日平和だったからね」
「そうだね。特に書くこと、ないかな」
 少しの間ができた。私は、もはや習慣的になりつつある動作で東の席に目を向けた。誰もいなかった。東は朝教室に来る時間は遅く、夕方帰る時間は早かった。真奈を見ると、彼女も私の視線を辿っていたことに気付き、二人して何かを言いかけて二人ともやめて、また新しい沈黙ができた。
「その、部活、行かなくていいの?」
 私が時計を見て言うと、真奈も我に返った。
「あ……、そうだね。ありがと! 行ってきます!」
「頑張ってね」
 去り際に私に手を振っていった。私も振り返した。そして、日誌には、最近は天気が悪い日が多くて、洗濯物がなかなか乾かなくて大変だということだけ書いて、職員室に提出に行った。

 月曜日と全く同じように、下駄箱に東智恵理が一人で佇んでいるのを見た時、私は動揺した。
「篠川さん、こんにちは」彼女は私を見つけると、やはり微笑みながら言った。「今日は日直だったの?」
「あ……、うん。そうだよ」私は靴を履き替えるために東から顔を逸らしていた。
「ねぇ、これから帰るの?」
「そうだけど」
「だったら、一緒に帰らない?」
 不自然に思われない程度の間を置きながら、断るための言い訳を探したが、見つかるはずもなかった。「東さん、誰か待ってたの?」
「誰を?」
「いや、東さんが教室出てからだいぶ時間経ってたみたいだし。誰かと待ち合わせしてたんじゃないのかな、って思ったんだけど」
「いいえ、私は誰も待ってないわ。さあ、行きましょう」
 東は私より歩幅が少し大きいのか、私は半歩遅れ気味で彼女についていった。校庭からは運動部の賑やかな掛け声、校舎からは吹奏楽部の練習の音が聞こえてくる。ふと私は、東と私が一緒に帰るところを知り合いに見られるかもしれないことに、不安を感じていることに気付いた。冷静に考えればそれはおかしかった。はたから見れば、ただクラスメイト同士が歩いているだけのことだ。
「篠川さんは、部活はやってないの?」
 校門を出たところで、前から準備していたかのように東は尋ねた。
「ううん。前はやってたんだけどね」一年生の間は、生徒は全員どこかしらの部活に一度は所属する義務があった。「英語部だったんだけど、拘束が緩い部活で、それに甘えちゃってだんだん行かなくなったんだ。二年生に上がるときには辞めちゃった」
「じゃあ、今日は真っ直ぐ帰るの?」
「うん……、そうだよ」
「おうちは学校から近いの?」
「片道十五分くらいのところかな」
「へぇ。どんな家に住んでるの?」
「アパート、だよ、普通の」
「ふーん」
 私の部屋のことを訊いてどうする気かと思った。用水路の上にかかる短い橋を渡った。その先の交差点で赤信号を待ってから、再び東が口を開いた。
「そのアパートには、昔から住んでるの?」
「ううん。えっと、引っ越してきたんだ」
「いつ? 転校してきたの?」
「転校ってわけじゃなくて、その、中学卒業したのと同時にこの街に引っ越したの。この高校には、一年生の最初からずっと通ってる」
「どうして引っ越したの?」
 我知らず警戒心が働いていた。「家の、事情があって」
「どんな事情?」
 私は黙り込んで、東が察してくれるのを待とうとした。「篠川さん?」振り向いて、眉をひそめる。「どんな事情なの?」
 私は意思表示としてその場に立ち止まった。ここまでためらいなくその質問をしてきた人間は初めてだった。彼女は一歩遅れて止まった。私の顔を見ている。
 私は大きく息を吐き出した。しばらく経つと、自然と自分の気持ちを整理できていた。親しい友達には話してあることじゃないか。ただしばらく人前でそれをしてこなかっただけだ。決して聞いて良い気分になる話ではないけれど、別に隠し通すほどのことでもない。この質問攻めを終わらせられるのなら、話してしまった方が良いと感じた。
「私、親がいないの」呼吸は落ち着いていた。「二人とも、私が小さい時に亡くなって。それから母方の叔母さんに引き取られたんだけど、叔母さんも仕事してて、忙しくて。あまり私に構ってられなかった。だから話し合って、高校に上がったら一人で暮らすことに決めたの。それで、その叔母さんが通ってた高校に行くことになったんだ。だから、もともとはここ出身じゃないよ、ってこと」
 私が喋っている間、東は一言も話さず、顔には何の表情も浮かべていなかった。どこかから救急車のサイレンが聞こえた。
「そういうことね」ようやくそう言うと、少し微笑んだ。「分かった。ありがとう」
 彼女は少しも驚きを見せなかったが、私の方もこの昔話をしたところで、今更感情が動くことはなかった。また『知っている』人が一人増えただけだ、そう思った。
 それでも、こんなにあっけなく話を終わらせた人は、やはり初めてだった。

 東が歩き出したので、私も慌ててついていった。彼女は何も言わないが、また口を開けば別の質問を始めそうにも感じられた。
「ねぇ、私も訊いて良いかな」気軽な口調を心掛けた。「東さんは、どこの出身なの?」
 答えが返ってくるまでにあまりにも間があったので、私の声が聞こえなかったのかと思いかけた。
「私がどこから来たかなんて、些細なことでしょ。今私がどこにいるかということの方が大事」
「そう? 私は気になるんだけど」
「私は小さい頃から、あちこちで転校を繰り返してきたの。この学校の前にどこにいたかなんて、もうほとんど意味は無い」
 教室で東が自己紹介した時に想像したことが正しかったことを知った。「何回も転校してるってことは、親のお仕事の都合とか、かな?」私はさりげなく質問を重ねた。
「まあ、そんなところ」
「そっか。大変、だよね。頻繁に転校してたら、一つの学校で思い出なんて作りづらいんじゃないかな」
「思い出って?」
「誰か友達を作って、一緒に遊んだりとか、一緒に行事に出たりとか。きっと、そういう暇も無くて大変なんじゃないかな、って」
「あなたにとっては、友達を作れるかどうかが大事ということ?」
 どういうわけか、その言葉は私の胸の奥をきゅっと絞め付けた。東は、ふっと笑った。
「いえ、別に否定してるわけじゃないの。むしろ、私もそう思う。私もどんな場所に行っても、人との繋がりを作るようにしたの。そのおかげで、行く先々でたくさんの人と仲を深められた」
 私は、それは才能なのだと思った。知らない他者しかいない場所にあっても、簡単に孤独から脱することができること。「心が強いんだね、東さんって。私には、そんな上手くはできないや」
 東が私の方に振り返った。
「篠川さん、心が強いかどうかなんて関係無いの。問題は、行動するかしないかだけ。孤独を遠ざけることは、本当は簡単なの。多くの人ができないと思っているだけで。でも、私は違う。昔からそうだったの、私は」
 しばらく何も言えなかった。東が話しているのは、彼女が長い転校生活を経て培った、独自の人間関係の理論なのだと思った。
「でも、どうやって?」
「何が?」
「簡単にって言うけど、どうやって、その、孤独を遠ざけるの?」
 車のいない交差点で、再び赤信号で立ち止まった。今や東は私と正対して、微笑んでいた。「ねぇ、篠川さん」
「何?」
「あなたは、愛が欲しい?」
 なぜそんなことを訊くのか分からなかった。
「私はね、愛が欲しいの」彼女は私にだけ聞こえるような大きさの声で話した。それと同時に、私には彼女以外の音が聞こえなかった。「私はずっと愛に囲まれてきた。愛を求めてきたから。そして、愛を与えてくれる人々に、私もまた愛を与えてきたから。それだけ。それだけで、人は私と分かちがたく結びつくようになれる。だからね、私はいつでも愛が欲しい」
 私は、彼女の口から流れてくる言葉を理解しようと試みた。そして、
「分からないよ、私には」
「いいえ、あなたはもう知っているはず。私には分かる」
 歩行者信号が青に変わった。「篠川さん、今日はありがとう。私はあの道から帰るわ」東は、灰色のマンションと、法律事務所の跡地に挟まれた道の方を指さして言った。
「あ、うん。それじゃ――」
「最後に一つだけ」手を挙げて私の言葉を遮った。「智恵理って呼んで」
「え?」
「下の名前で呼んで、さん付けじゃなくて。良いでしょう?」
 違和感が無いはずが無かったが、それを理由に断るわけにもいかなかった。
「うん……、分かった。じゃあ、智恵理ちゃん、で良いかな」
「ええ」
「なら、私のことも、夕実って呼んで良いよ」
「ありがとう」
 そして、智恵理は歩き出した。「また明日」手を振っている。信号が途中で赤に変わっても、彼女は急ぐことなくそのまま歩き続けた。

 アパートの階段を上りながら、智恵理が尋ねたことを考えていた。愛が欲しいって、どういう意味だ。でも、この問いは漠然としすぎている。友達同士の親愛という意味なのか、それとも恋愛の意味なのか。彼女の言っていることは、私の頭の中のどの言葉にも一致しない。
 玄関を開けると、いつもの寒々しい暗闇が中で待っている。「行ってきます」を言わなくなったように、私は「ただいま」も言わなくなった。誰にも聞かれることのない言葉なんて、無価値で寂しいだけだ。
 叔母さんと暮らしていた頃のことが頭に思い浮かんだ。やはりその時も、私が小学校や中学校から帰ると、無人の家の玄関を開けて、叔母さんが帰ってくるのを、一人で宿題をしながら待っていた。宿題が終わってもまだ時間が余ると、料理に興味を持ち始めた。少しでも温かいものを、疲れている叔母さんに食べさせたかったし、そして私自身も食べたかった。
 今も確かに、家で温かいものを食べることはできる。それでも、食べる時は一人だった。

 

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