愛をください 1章 (2/2ページ)

「何だか皆、朝から浮ついてる感じだね」中島先生は教卓に片手を突いてクラスを見回して、微笑んだ。その指摘の通り、教室の中には奇妙な熱を帯びた空気が充満している。その理由は、ホームルームが始まる前に、一番廊下に近い席の列の最後尾に追加された、一組の机と椅子だった。
「どんな感じの子なの、しまちゃん?」舞がにやにやしながら訊いた。彼女があだ名を付ける相手はクラスメイトに限らない。
「もー、そんなこと私の口から言えません」先生は苦笑した。
 教室中で素早く私語が交わされた。帰国子女かな? 留学生? 金髪? 期待と不安が、机と机の間でやり取りされる。残念だけど金髪じゃないよ、と私は心の中で教えた。
「はいはい、そこまで。時間はあんまり無いの」と、先生が皆を静かにさせる。「今日からこの二年七組で、皆と一緒に過ごす転校生の子を紹介します。遠いところから引っ越してきたばかりで、不安に思ってるかもしれないから、皆で温かく迎えてあげてね。それじゃあ――」教室のドアの方を向いて、「――東智恵理さん、どうぞ」
 先ほど私が職員室の前で見た通りの女の子が入ってきた。クラスのあちこちで、純粋な感嘆から来るため息が漏れた。その後またあちこちで頭と頭が寄せ合わされ、囁きが起こる。凄い黒髪ロング、とか、マジメそう、とか。
「初めまして、東智恵理と言います」
 彼女の声は決して大きくはなかったが、不思議と私の座っている所でもはっきり聞こえた。顔を正面から見るのは初めてだ。色白で、くっきりした二重の瞼で、目鼻立ちが整っている。正直に言って、美形だった。口元には落ち着いた微笑を湛えている。
「少し前にこの街に引っ越してきたばかりです。色々知りたいこともあるけれど、まずは皆さんと仲良くなれたらと思います。得意な教科は……、数学かな。趣味は、特に無くて、探しているところです。皆さん、よろしくお願いします」
 東が一礼する。拍手が起こった。挨拶は普通だね、と誰かが囁いていた。
「東さん、ありがとう。こちらこそ、今日からよろしくね。それじゃあ、東さんの席は、あちらね」
「はい」穏やかに返事をした。そして、列と列の間を静かに通る。彼女の足取りや立ち居振る舞いには、緊張や不安が少しも感じられなかった。もしかしたら、転校を何度も繰り返してきて、もう慣れっこなのかもしれない。
 そういえば、出身はどこか、どこから引っ越してきたのか、という話はまだ聞いていない。
「これでクラスがますます賑やかになると良いね」先生は屈託のない笑顔で言った。「皆からの自己紹介は、後で各自で済ませてね」それからは、普段通りのホームルームが続く。とはいえ、席の間には、先ほどの熱気の名残がまだある。転校生が、教室中の密やかな興味の視線を集めていた。現に私も、先生の話は半分聞いていないようなものだった。その中でも東は取り澄ました表情を維持していた。

 集団の中の新入りに対する反応は、安全圏からとりあえず様子見することか、何らかの形で早々にその人と関わりを持つことになるかの、どちらかしかない。舞は興味だけで動く人間で、いつも私達の先陣を切って動く。
「おっはようございます! 東さん!」
 彼女は東の机の前に立った。
「おはよう。えーと……」東は座ったまま、その大きな瞳で舞を見上げた。
「内藤舞って言うの! 好きに呼んで良いよ! マイケルとかマイアミとかマイコプラズマとか」
 東の周囲の何人かの笑いは誘えた。
「東さん、下の名前は智恵理って言うんだよね!」
「ええ」
「そっかぁ、じゃあこれから東さんのことは……」
 どうせ〈ちえりん〉を思いつくのが関の山だろう、と私を含めたクラスメイトが、現代国語の教科書を準備しながら思う。
「……ちえりん! 良いよね! それともダメ?」
 また何人かが失笑した。
「舞って、言うほどあだ名のレパートリー無いよなー」そう声をかけたのは、〈ちえりん〉の左隣の席の飯田亜樹だ。陸上部所属で、いつも日に焼けている。「ま、コイツのことは気にしなくて良いよ。あたしは飯田亜樹。よろしくね!」そして、爽やかに微笑んで、東に手を差し出した。
「『気にしなくて良い』とは何だ、アッキー!」舞は憤慨してみせる。
 一方の東は微笑みの程度は変えずに、亜樹の手を握り返した。「ええ、こちらこそよろしくね、飯田さん。それと――」舞の方を向いた。「〈ちえりん〉って、面白いわね、内藤さん。そんな風に呼ばれたことって無いから」
 舞はそれだけでぱっと顔を輝かせた。「でしょー? じゃあ、〈ちえりん〉で決定ってことで! 私にも握手!」
「はいはい、もう舞は席に戻りなさい」
 ここで室長の都が割り込み、騒ぐ舞を無視して話を始めた。「ちえ……えーと、東さん。私は大橋都って言います。一応、このクラスの室長――あ、委員長みたいなものね――それをやってるの」
「そう、よろしくね、大橋さん」
 都は、普段は適度に室長の仕事の手を抜いているように周りの皆に見せているが、こういう時には、元々の責任感の強さを隠しきれていない。
「ええ、よろしく。何か困ったことがあったら、私でも良いし、周りの子でも良いし、遠慮なく言ってね。授業とか、途中から始まって分からないところもあるだろうし」
「あたしが教えたげる!」亜樹が机を東の方に寄せた。そして、にこっと笑う。
「ありがとう、しばらくお世話になるかもね。次の授業は……」
「現国。その赤っぽい表紙のが教科書。便覧は時々使う感じで」
 真奈の席の方を見ると、彼女も東を観察していた。時折、前の席の小宮桜子と会話を交わしている。こちらの視線に気付いたのか、真奈と目が合った。どう思う、夕実ちゃん? 目で訊いている。分からない、と私は小さく首を振った。
 ふと別の視線の気配を感じた。どういうわけか、私にはその正体が直感的に分かっていて、確かめると果たしてそれは〈ちえりん〉だった。まともにこちらの顔を見ている。他の誰でもなく、明らかに私を。亜樹が何か話している側で。口元に微笑を浮かべていて、それでも何の意図も読み取れない。私が見つめ返しても、何も変化を起こさない。
 耐えられなくなって、思わず軽く頭を俯けて目を逸らした。それ以降、私は授業に身が入らない気がした。

「夕実ちゃん、どうかしたの?」
 一日の授業が終わり、帰り支度をしていると、真奈が声をかけてきた。
「え、何が?」私は平静を装った。
「ううん。ただ、なんか真剣な表情だったから」
「別に。何でも無いよ」
 私は視界の端でちらりと東の席を見て、彼女がもうそこにいないことを確認した。
 あの一限目以降で、東の様子に不審なところは無かった。たぶん、普通の転校生と同じくらいのペースで、彼女はクラスの空気を掴み始めている。客観的に言って、言動には人当たりの良さが感じられた。もっぱら話し相手になったのは、遠くの席からわざわざ絡みにやってくる内藤舞と、左隣の飯田亜樹と、東の前の席の吉田紗江という華道部の子だった。そのうちの誰と話す時でも、東は相手の話に対して適度に笑い、適度に相槌をし、適度に質問をする。自分が話す時は、喋りすぎず、適切な間を置き、そして相手の笑いや納得を誘う。見ていた限りでは、話していたその三人はもちろん、それ以外のクラスメイトも、この転校生に良い印象を持ちつつあるということを、私は感じた。
 だから、私が朝から持ち続けている違和感の正体が分からない。私の知る限り、東は私以外の人間にあんな無遠慮な凝視をぶつけてはいないようだった。一方で、あの凝視の間以外で、東が私に注意を向けた様子も見られなかった。こそこそと私についての話をしだすこともないし、周りにいる人の視線を私の方へと誘うこともなかった。
 このことに、私の心はざわつかされてきた。さらに何かが起きたのではなく、あれ以上は何も起きていないということに。
「ほんとに何でもない?」真奈が私の顔を覗き込んできた。大きな丸い瞳の上に、前髪が一筋垂れた。「もしかして、東さんのこと?」
「まあ、それはあるかな」ふと思いついて、尋ねた。「真奈は、あの子のこと、どう思う?」
 真奈は天井の辺りを見上げた。「うーん……、何ていうか、『かわいい』っていうより『綺麗』っていう感じの子だったな、って」
「うん。それは分かる、かな」
「そう、髪凄いさらっさらだったよね! 何のシャンプー使ってるんだろう。あそこまで伸ばしててあんなに綺麗って、羨ましいなぁ」
 真奈の髪はうなじまで届く長さで、今はその毛先を指でいじっていた。
「まあ、あのレベルは別格だとしても、真奈のも十分綺麗だと思うよ」言い終わってから少し恥ずかしさを感じたが、それでも普段から確かにそう思っていた。
 真奈は手を止めてふっと顔を上げ、私を見てから照れたように微笑んだ。
「そうかな……、ありがとう。あの、夕実ちゃんもその髪、似合ってるよ。夕実ちゃん、背高いし、細いし、かわいいし……」
 冗談かと思ったけれど、伏し目がちに話す真奈の顔を見て、真剣だと感じた。人にそんな風に言われたことがあまり無くて、私はどう言葉を返したら良いのか、すぐ分からなかった。
「夕実ちゃん何か答えてよ! 恥ずかしいじゃん!」真奈の頬が赤くなっているのに気付いた。
「あ、ごめん……、ありがとう。かわいい、かな。最近体重増えた気がして、ちょっとやばいかなって思ってたんだけど」
「全然だよ! それで太ってるんだったら、私とかどうなるの?」
 私達は互いに顔を見合わせて、それから一緒に笑った。
 鞄を閉じて、私は真奈と教室を出た。一緒に下校できるのは、主に月曜日と木曜日だった。それ以外の日は、真奈は放送部の活動に出る。元々真奈は朗読することが好きで、一年生の四月に迷いなく入部を決めたらしい。実際、私も真奈の声は好きだった。聞いていると、優しくてほっとした気持ちになる。もちろんそれを口で言うのは、髪を褒めるよりも恥ずかしいことだから黙っていた。私は、ただの帰宅部員だった。

 階段を下りて下駄箱に向かった。靴を履き替えようとした時、玄関口に東智恵理がいるのに気が付いて、思わず手が止まった。こちらに背を向けていて、夕暮れの光の中で、余計にその長髪が深い黒色に見えた。彼女はこちらの気配に気付いたように振り向いた。口元には笑みが浮かんでいた。その瞬間、本能的に、それは今まで私が他者の顔の中に見てきた、どんな種類の笑みとも違うということを感じた。
「あっ、えっと、東さん……?」隣で真奈が声をかけた。放送部自慢の声が、驚きで小さくなっている。
「こんにちは。同じクラスの……、名前は何でしたっけ?」
「私は、高崎真奈だよ。あの、教室で窓側の前の方に座ってる、って分かるかな……」
 東は、私に視線を移した。今度は堂々と真正面から見つめられた。私はまるで、自分の目の奥にあるものを値踏みされているような気分だった。
「私は、夕実。篠川夕実」少しぞんざいにも聞こえる口調になってしまった。よく考えたら、彼女は名前も知らない人間のことをこれまでじろじろと見ていたのか。
「ありがとう。ごめんなさいね、まだ全員の名前を覚えられてないから」東の表情は一定だった。「これからよろしくね」
「こちらこそ! よろしくね」
「うん……」
 東は頷くと、「それじゃあ、私は先に。また明日」小さく手を振った。私にはその動作がやけにスローに見えた。
「あっ、バイバイ……」真奈も慌てて手を振るが、既に東は振り向いて歩き出してしまったので、見てもらえなかった。
「何かさ、東さんって……」二人で玄関を出たところで、真奈は口を開いたが、続く言葉を選ぶように間があった。「その、不思議な感じ、するよね」
「うん、私もそう思う」
 しかし、それが、具体的にどんなものなのかは言い表せなかった。少なくとも表面的に見れば、彼女は礼儀正しい転校生なのだ。その姿から違和感が覗くのは、ほんの一瞬の出来事。今はそれだけのことを、あれこれ考えることはできなかった。
 何か別の話をしたかった。門を出た時、私は今朝のテレビのことを思い出した。鞄からスマートフォンを取り出して電源を入れる。
「真奈、このバンドって知ってる? 私のお気に入りなんだけど」
「え、なになに?」
 転校生以外のことを考えたかったのは、真奈も同じようだった。それからは、その動画を観て、二人して熱心にその話題にしがみついた。

 

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