愛をください 1章 (1/2ページ)

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 高校生だけど一人暮らしをしている、という話をすると、たいていの人には驚かれた。その後には決まって、両親はどうしてるのとか、一人で寂しくはないのか、という質問が返ってくる。
 少なくとも、私の通う学校ではそういう生徒はとても珍しかった。偏差値がそこまで高いわけでもない、ごく普通の県立の女子高校で、ほとんどの生徒は同じ地元で進学してくる。私みたいによそからの人間が混ざることもあまり無い。寮というものも無いから、私は学校から離れたアパートに住み込ませてもらっている。
 それでも、教室の中では、私も皆と同じになれた。クラスや先生から、何か差別をされるわけでもなかった。友達は皆、理解して受け入れてくれている。だから、私はこの生き方を寂しいなんて思っていない。私は皆と何も変わらないのだ。ほんの少し、事情が違うだけ。

 だから、私は今朝も一人で目覚める。
 顔と手を洗い、エプロンを付けてから、朝ごはん用とお弁当用の食材を冷蔵庫から取り出す。平日の朝は、お茶漬けかカップスープと、お弁当用に作る卵焼きの余りなどで済ませてしまうことが多い。フライパンを出して火で温めておきつつ、今日はお弁当にソーセージをいくつ入れようかと考える。残りはほとんど、レンジで温める冷凍食品ばかりになるけど。
 七時四十五分頃までには用意をだいたい終わらせ、手早く朝ごはんに取りかかる。テレビは情報番組を映して、ドラマや音楽、漫画、映画などのニュースをチェックしておく。今朝は、私の知っている四人組バンドが近々出すシングルのプロモーションビデオが映っていた。後で、動画配信サイトで見ておこう。
 食べ終わると、出かけるまでの十分弱を身だしなみに使う。頭はセミショートの髪を結んで、ピンを加えるだけ。友達にはもっと凝っていて可愛い子もいるけれど、私にはこれが精いっぱいだった。鏡の前でリボンを直し、スカートの丈を調節する。ブレザーを羽織り、最後に唇にクリームを塗る。
 テレビを消し、電灯も消す。ガスは止めた。窓もカーテンも閉めた。紺色の通学鞄にお弁当と、充電ケーブルから抜いたスマートフォンを入れる。この生活を始めてしばらくの間は、出かける時に「行ってきます」と部屋の中に向かって言っていたこともあった。その習慣がいつ無くなってしまったかは、覚えていない。

 それでも、私の朝はまるっきり味気ないわけじゃない。
「おはよう」
 高崎真奈は、私を見つけて明るい声をかけてくれる。毎朝、私のアパートを出て二番目の角にあるカーブミラーの下で待ってくれる。
「おはよ。待った?」
「ううん。大丈夫」真奈はいつもこう言って、はにかむ。そして、二人で学校まで十五分ほどかかる道のりを歩き出す。私達の典型的な朝の時間。
「夕実ちゃんも冬服デビューしたんだね」真奈は私の着ているジャケットを見て言った。
「もう寒くなってきたし。いつまでも夏服でいたら、浮いちゃうじゃん」
 今は夏服から冬服への更衣期間に当たる。先週金曜日の時点で、クラスの席の過半数が黒っぽい色で埋め尽くされるようになった。
「そうだね。天気予報でも、今日は最高気温十八度って言ってた」真奈は早くもブレザーの下にカーディガンを着ていて、その袖を伸ばして手が半分ぐらい隠れるようにしていた。真奈は、身長は私より少し低くて、私よりもずっと寒がりだった。
「あ、ゆうべはありがとね! あの英語のテキスト」真奈が言った。
「ああ、あれ? 良いよ、別に」昨晩夕食を作っていた時に真奈からかかってきた、救援要請の電話を思い出した。昨日が初めてのことではないし、どうということもない。
「やっぱり、夕実ちゃんが教える英語が一番分かりやすいよ! 単語の意味の違いとか、すっごく納得できるから」
「そうかな」
「何だっけ、もう一回確認しなきゃ……。”allow”と”admit”って、どう違うんだっけ」
「”allow”は、誰かが何かをしても良いって意味での『許す』で、to不定詞を取る。”admit”は、入学を認めるとか、受け入れるって意味での『許す』。こっちは不定詞は使えない」
「じゃあ、”forgive”は?」
「それは、人の罪とか間違いに対して使う『赦す』」
 真奈は「凄い!」と、顔を輝かせて、私の腕に手を触れる。自分が英語が得意かどうかは分からないけれど、少なくとも嫌いではなかった。そういうわけなのか、私が友達に教えてあげる機会はなぜか多かった。でも、勉強で自慢できることがあるとしたら、それぐらいだった。私より成績が上の子なんて、たくさんいる。
「また今度の中間テストでもお世話になります、夕実先生」
「もう決まってるの? その前にちょっとは自分でも頑張りなよ」
 真奈は笑った。私も笑った。目の前の横断歩道の青信号が点滅しているのに気付いて、一緒に駆け足でそこを渡った。

 学校に着くまでの間、いつも話題はあちこちに当てもなく飛ぶ。クラスの友達の話。他のクラスの話。宿題の話。テレビの話。音楽の話。服の話。休日の話。たまに、進路の話。
 朝からこれだけお喋りして、もう十分というくらい笑うのに、それでも夕方になって別れると、微かな寂しさを感じることがある。そういう時には、電話をかけたりメッセージを送ったりすれば良いのだけれど、そうするとどういうわけかもっと直接顔を見たくなる。それだけ、こうして側にいて話す時のことが、大切に思えてくる。
「そういえばさ、あれ……、今日じゃないかな?」学校の校舎が見えてきたところで、真奈が口を開いた。
「あれって?」
「ほら、転校生」
 その噂は、九月になってからしばらくすると、いつの間にか教室の中に広まっていた。話の正確な出所は例によって分からなかったし、突拍子もない気がしたけれど。その噂を信じる人は、現状で私達のクラスは同学年の他クラスより、人数が一人少ないということを、もっともらしい根拠の一つにしていた。先々週の水曜日には、真偽を確かめたくて堪らなくなったクラスメイトが一人、とうとう担任の中島先生に直接そのことを訊いた。先生は、話の半分、つまり転校生は来るという部分は認めた。ただ、まだどのクラスに入るかは知らないらしい。このおかげで、クラス内のお喋りは、「いつ」という点に絞られるようになった――転校生がうちのクラスに入るという点は、もう誰も疑ってなかった。
 とはいえ、例の水曜日から先週金曜日まで、今日こそ転校してくると言われては結局来ないという日が続いた。「また今日も来ないんじゃないの」私は冷やかすように言ってみた。
 真奈は、「どうかなぁ」と首を傾げてみせた。「来るとしたら、やっぱり週の始まりがちょうど良いんじゃない?」
「そりゃそうかもしれないけど……」何か言葉を続けようかとも思ったが、他に言いたいことは無かった。転校生が来るかもしれないからって、今から何をするんだ。心の準備? 来たら来たで、その時に考えれば良いことだ。
 私達は、学校の門へ上がる短い坂道を上った。

 教室棟の二階に上がり、廊下の突き当たりにある七組の教室に入る。近くにいるクラスメイトと挨拶を交わす。
「おっはよう、ゆーみん、まなてぃー!」
 内藤舞が、自分のものではない席に座って、こちらに手を振っていた。彼女は誰にでもあだ名を付けたがる子で、人を本名よりも自分が付けたあだ名で覚えている。
「おはよ。また室長のお世話になってるの?」私は笑いながら言った。
「あはは。ゆうべ卓球部の子と話しててやっと宿題の存在思い出してね」シャーペンを持った手で、くせっ毛の頭をかいていた。
 舞の目の前の机には、大橋都がいた。このクラスの室長を皆から任されるくらいには成績も優秀で、こんな風に宿題を見せてとせがまれるくらいには、日頃から舞に絡まれている。二人は中学校からの親友だと(少なくとも舞は)言っていた。
「早くテキスト写し終ってよね、今日の小テストの範囲の勉強しときたいんだから」都はうんざりした様子で舞に言った。今日は髪をサイドで縛っている。
「いやぁ、申し訳ないね。でも、なんだかんだ言ってこうやっていつも写させてくれる都りんのこと、私は尊敬してるからね」
「媚びなくていいから早く手動かして」
「媚びてないって。ほんとほんと。まあ私も何度もお世話になってるし? 恩知らずってわけじゃないから、そろそろお礼してあげないといけない頃かなぁって思ってるもん」
「へえ、そうなの。じゃあ、そうね、駅前のホテルでやってるスイーツパラダイスを五回分奢ってもらえるくらいのことはしてきたかな、私」
「え、それは、予算的にちょっと……」
「あれ、お礼してくれるんでしょ?」
「ええっ、今月は苦しいんで勘弁してください……」
 テキストの上で頭を下げる舞を見て、都はちょっとおかしそうに笑った。「まあ奢らなくて良いけど、今度の週末で一緒に行くからね。予定、空けといてよ」
 舞は安堵のため息をついた。「了解ー」
「そうだ、夕実と真奈も一緒にどう?」都は私達を見て訊いてきた。
「良いの? 私も行きたい!」と真奈。「夕実ちゃんは?」
 真奈と都、舞の目線が私に向いた。その時私の頭に浮かんでいたのは、ここ最近の体重の推移と、お腹周りのサイズ、そして自分のお財布の中身のことだった。何となく、私は真奈みたいに即答できない。
「あれ、行かないの、夕実?」と都。
 私は少しためらってから、結局「ううん、私も行くよ」と答えた。
「オッケー。じゃあ今度の日曜日で良い?」
 三人は笑顔になって、当日の予定を話し始める。私はこれで良いんだと思うことにした。友達付き合いは大切だから。
 その後、私は自分の席に着いた。教卓の正面の列の一番後ろで、ここからはどの席の背中も見ることができた。真奈は、私から見て左斜め前の方の席に着く。前から三番目の机。
「あの、夕実ちゃん、おはよう」
 気付くと、私の隣に図書委員の加藤優子が立っていた。
「おはよう……あ、もしかして」私は彼女が話しかけた意図を察して、机の中を探った。海外の短編小説の本が出てきた。英語の授業の教科書に載っていた原文が面白くて、気になって邦訳版を借りたのだった。先週金曜日が返却期限だったが、それを忘れていたことに気付いたのは家に帰った後だった。「ごめん、今すぐ行ってくる。間に合うよね?」言いながら私は席を立つ。
「うん、大丈夫だよ。まだ今のうちならセーフにしてもらえると思う」優子がこの本の返却期限を知っていたのは、私がこの本を借りた時に図書室で受付をしていたからだった。たぶん、例の金曜日も当番をしていて、私がまだ返却していないことに気付いたんだろう。
「ありがとね、教えてくれて」
「うん、気にしないで。行ってらっしゃい」優子はそう言いながら、どこか前々から気がかりだった一仕事を終えたかのように、ほっとした笑顔をしていた。優子は親切だけど、人見知りらしかった。
 教室棟二階の渡り廊下を通って、北側の本館棟に向かう。図書室に行くには、職員室の手前にある階段を上ることになる。職員室は、もうすぐ朝の会議が始まるところのようで、何人かの教師達が私を追い越して、足早に部屋へ入っていった。
 階段を上っていると、職員室のドアの前に、一人の生徒が静かに立っているのが見えた。通学鞄を両手で持っていて、制服は真新しいもののように見えた。すらりとした体つきで、身長は私より高そうだった。そして、何よりも彼女の長い髪が目を引いた。星の無い夜空よりも暗い黒色。それを濃紺のカチューシャで留めている。学校には七百人程度の生徒がいるけど、毎日そこで過ごしていれば、見覚えのある生徒とそうでない生徒の区別は、だんだんと付くようになる。彼女は後者だった。
 職員室のドアから、中島先生が顔を出して、その生徒を室内へ手招きした。その子はそれに応じて、部屋に足を踏み入れていった。私は階段を上り続けた。彼女が視界から消える寸前で、なぜか彼女がこちらを振り向いたような気がしたが、私はもう目を逸らしていた。

 

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