愛をください 7章(1/2ページ)

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 この冬で一番寒い朝だった。お弁当を準備している時に、スマートフォンに着信があった。〈ごめん、また気分悪くなっちゃった。欠席するかもしれないから、先に行ってて〉
 その文章をじっと見つめた後、私は〈分かった、気を付けてね〉とだけ返信した。その間に卵焼きが焦げてしまった。
 家を出てカーブミラーの所に来ると、そこで立ち止まって、辺りを見回した。人の姿は無い。五分くらいしてから、静かに学校に向かって歩き始めた。
 教室の中で、自分が完全に独りだということが、今更ながらに意識に上った。私はそのことに、自分で想像していた以上に、うろたえている。
「ゆーみん、まなてぃーはいないの?」たまたま近くにいた舞が、何かのついでのように私に訊いた。
「まだ具合が悪いって。遅れてくるか、欠席するかも」私は舞と目を合わせずに答えた。
 智恵理が姿を現すと、もう舞は私に興味を無くしている。それで良い、と私は思った。
 ホームルームが始まる少し前に、真奈が教室に入ってきて、すぐに自分の席に着いた。私は声をかけにいこうとしたが、やめてしまった。

 授業の間の休憩時間でも、私達に会話は無かった。昼にはいつものように席を立って近くに来たけど、表情は暗かった。
 私は、智恵理の王国が作られる部屋を後にした。
「智恵理ちゃん、これ、あなたのために作ったの! 食べて!」
「ねぇ、昨日はあんまりお話してくれなかったから、今日は隣に座って良い?」
「ええ、皆順番にして。私はここにいるから」
 私は、背後に智恵理の視線を感じたが、無視した。
 いつもの階段に腰を下ろすと、何を話そうか考えた。
「具合はどう?」
 真奈は無言で頷いてから、付け足すように「大丈夫、ありがとう」と口を開いた。その割には、私と同様、お弁当に手を付けようとしない。
「ねぇ、これから、どうなるのかな?」真奈が訊いた。
「何が?」
「その、色々と」小さく首を振っている。「何が起きるのか、分かんない」
「私は側にいるよ」
 こちらを見る真奈の目に、影が差したように見えた。
「本当?」
「うん」
 それからようやくお弁当に手を付け始めた。そこで、気になっていたことを訊いた。
「ねぇ、昨日の朝、保健室にいた時、私に何を言おうとしたの?」
 真奈は箸を持つ手を止めて、
「じゃあ……、帰りのホームルーム終わったら、またここに来てくれる?」この階段を指さした。「今日、部活は休むから」

 その後の授業も、智恵理を愛する子達のお喋りも、何も気付かない中島先生の笑顔も、全部私の記憶には残らない。ホームルームが終わった時、真奈は黙って立ち上がって、私への目配せも無く出て行った。一方で、智恵理は私のことを見ていた。鞄を持ち上げると、私は振り返らずに教室を出た。
 私が階段を上っていくと、最上段に座っていた真奈は鞄を持って腰を上げた。側に立っても、私と目を合わせようとしてくれなくて、ずっと下を向いている。
「今更だけど、ここで話さないといけない?」授業後になると、運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏が、ここまで反響してきて、あまり静かではなかった。
「ここで良いの」真奈は言った。それから束の間黙って、決心したように顔を上げた。「夕実ちゃん……、私のこと、正直にどう思ってる?」
「好きだよ、もちろん」
「その……、本当に?」
 真奈の方が告白してきたのに。どういうわけか、私は少し苛立ってきた。「本当だよ」
 真奈の視線が彷徨っている。「ごめんね。あの時言いたかったのは、夕実ちゃんは私を心配してくれてるけど、本当は心の中でどんなこと思ってるんだろう、っていうこと。それが気になったから……、訊いてみたかったの」
 私の気持ちを疑っているんだと思った。そして、まだ真奈が言ったのはうわべだけの説明だと思った。「私がどう答えるかなんて、訊かなくても分かるでしょ。それより真奈は、私が内心でどう思ってるって想像してたの?」
 喋ることを躊躇っているみたいに、身体をもぞもぞさせている。部活の音は聞こえなくなって、代わりに強い風の音の反響がごうごうとうるさかった。「ねぇ、何か言ってよ……」
 真奈の顔が上がった。ようやく口を開いた時、その声は震えていた。
「夕実ちゃんが……、本当は無理して私と付き合ってるんじゃないかなって」
 私は真奈の顔を見つめた。彼女は首を振った。
「告白して、夕実ちゃんが受け入れてくれて、その時は嬉し過ぎて、何も考えてなかった。夕実ちゃんが側にいてくれることを、当たり前に思ってた。でも、だんだん怖くなってきたの、なんでこんなにすんなり行ったんだろうって。私、何か忘れてるんじゃないかって。で、気付いたの。あの時、夕実ちゃんの気持ちをよく確かめてなかったって。『初めて心を開けた人』って言ってくれたよね。でも、『好き』とは言ってくれなかった。今ならそう言ってくれるけれど、それだとあの時のことは分かんない。だから……、訊きたいの」
 目尻に涙が溜まっていた。
「ねぇ、私を受け入れてくれたのは……、夕実ちゃんも私のことが好きだったから? それとも、夕実ちゃんが優しかったから?」
 私は何か言葉を発しないといけないのに、何とかして真奈の間違いを否定しないといけないのに。私自身が私を疑ってしまっていた。
「夕実ちゃんが優しいってことは、ずっと前から知ってる。それだから、本当は、怖いの。私が何も心配しなくて良いって言ってくれることが。私が傷ついたり不安に思ったりしないように、無理してる気がして。夕実ちゃんは、自分がどう思ってるか隠すのも得意だから」
「違う、って……」私はようやく声を絞り出した。「あの時、まさか断ることなんて考えて無かったよ。真奈が勇気を振り絞ってくれたから、それに応えようって――」
「やっぱりそれは、夕実ちゃんが優しいからだよね」
「そういうことじゃないって!」声が反響して、自分でも嫌になるほど大きく聞こえた。「私は、私は……、真奈のことが大切だったから……」
 もう何を言っても過去のことは取り消せないのだと分かった。
 真奈は指で涙をぬぐって、「夕実ちゃん、私も、夕実ちゃんのことが大切だよ。だから……、もう迷惑かけないようにするね」そして、とても脆い笑顔を浮かべた。
「じゃあね」階段を駆け下りていった。
 私は、床に下ろしていた鞄を引っ掴んで、後を追おうとした。数段下りたところでつまずいて体勢を崩して、とっさに手すりを掴んだけれど、鞄が手から離れ、階段の上に落ちた。ファスナーの開いていた部分から、筆箱や携帯電話がこぼれ出た。私は立ち直ってそこまで下りていった。もう真奈の姿は見えない。
 鞄とその中身を拾い集めて、下の階の廊下に出て、左右を見渡した。どこに行ったか分からない。教室かと一瞬思ったが、もうそこには用は無いはずだった。真っ直ぐ帰るつもりだったら、まだ追いつくかもしれない。
 下駄箱に着いた時、周りの静寂さに気付いた。部活動の声も聞こえない、風の音も微かになっている。この場所は、こんなにも音が届かなかっただろうか。
 人がいる気配があった。一人ではなくて、二人だった。私はそろそろと近づいて、普段使っている下駄箱の隣を覗いた。
 真奈と智恵理がいた。私が恐れていた通りのことをしていた。智恵理が真奈の身体を下駄箱に押し付け、両肩をしっかりと掴んで正面から覆いかぶさっていた。
 私は後ろの壁にもたれて、へたり込んだ。智恵理がこちらを見た。
「こうなることは避けられなかった」平板な響きだった。「あの日あなたがこの子を受け入れた瞬間に、全ては決まった。今日が、あなたとこの子にとっての清算の時だったの。あなたが手にしていたのは、本物の『永遠』ではなかった」
「真奈を、放して」
「表面的にはあなたはそう望んでいるけれど、それが叶わないことを既にあなたは知っている、そうでしょう?」
 荒い呼吸をした。視界が霞んできて、それでも真奈の顔を見ようとした。まだあの目には涙が溢れていた。でも、私のことを見てくれなかった。
「いつまでそこにいるの? そこにいれば状況が変わるとでも思っているの?」
 よろよろと立ち上がると、もう二人のことを見ないように、その場を離れた。

 自分の心がどんな状態であっても、私の脚は自分の家までの道を覚えていて、私はそこに連れてこられた。
 玄関の錠に鍵を差し込もうとして引っかかり、向きを変えてもう一度差し込んで開いた。毎日寝起きしている場所が、まるで見ず知らずの他人の部屋のように見えた。
 電気も点けず、鞄を床に落として、そのままベッドの上にうつぶせに倒れた。私は今、どこにもいないのだと感じた。これまで自分の人生の中で出会い、連れ添ってきたもの達が、全て自分から切り離されてしまったように思えた。この部屋はこのままずっと真っ暗闇だと思った。今日こんなことがあっても、私の周りの世界に明日というものが来るということが、信じられなかった。
 私はベッドの側のタオルを掴んで、それから私の身体を、内側から溢れてくるものに任せた。

 目が覚めた時に、まだ部屋は真っ暗だった。ほら、やっぱり、と思った。手の中にあったタオルは、私の目や鼻や口から流れたものを吸って濡れそぼっていた。頭と喉が痛かった。時計を見ると、一時十七分を指していた。
 その時、鞄の中でスマートフォンが振動して音を立てていることにようやく気が付いた。私はベッドから手を伸ばして、それを手に取る。画面の強い光に目が眩んだけれど、そこに〈着信 高崎真奈〉と書いてあることは分かった。私は指で画面をなぞって、耳にスピーカーを当てた。
「あなたは、取り返しのつかなかったものを取り戻すことを諦めきれない」智恵理の声が聞こえた。「自分の運命が自分自身に逆らっているように感じているけれど、最後には全てが元通りになると信じている。でも、それは幻想。あなたを今の状態にすることを選択したのは、他でもないあなた。それは、ずっと前に行われていた。その時点に引き返すことはできない」
 彼女は間を置いた。「でも、私から一つだけ、あなたにチャンスを与えられる。私の望んでいることと引き換えにして、あなたはあなたの望みの一部を取り戻せるかもしれない。悪くない取引でしょう。……聴いてる?」
 私の喉は、声というものを忘れてしまったみたいに何も出せなかった。
「まあいい。もしその気があるなら、今すぐ、学校に来て。夜が明けないうちに。待ってるから」電話は切れた。
 智恵理が言ったことを、時間をかけて理解した。ベッドに手を突いて、起き上がり、部屋の中を見回す。私にはやるべきことがあるのだと思った。きっと、彼女もそれを分かっているだろう。これを、私一人では終わらせられない。
 立ち上がって、ところどころ湿った制服を脱ぎ捨てて、ズボンとシャツに着替えた。それから、厚い上着を羽織った。玄関の鍵を持って、靴を履いた。

 

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